世界自然遺産・知床。その玄関口であり、人口約1,200人のウトロに、地域の観光のあり方そのものを問い直し続けてきたホテルがある。「北こぶし知床 ホテル&リゾート」だ。
このホテルの挑戦は、単なる改装やサービス刷新にとどまらない。桑島大介社長と桑島敏彦専務の兄弟を中心に進めてきたのは、ホテルのリブランディングを通じて、知床を「温泉地」ではなく「ネイチャーリゾート」として再定義することだった。
流氷、野生動物、原生的な自然、ネイチャーガイド、サウナ、アート。知床ならではの資源を、世界に通用する旅の体験へと編み直す。その実践は、ホテル単体の価値向上にとどまらず、知床エリア全体のブランドの方向性を先んじて示す営みにもなっている。
そうした挑戦の裏側には、どのような葛藤や地域への想いがあったのか。今回、桑島敏彦専務にお話を伺った。
桑島敏彦さん
1981年、北海道斜里町ウトロ生まれ。2004年に大学の観光学部を卒業後、旅行会社に入社。2005年に知床グランドホテルへ入社し、現在は北こぶし知床ホテル&リゾート、KIKI知床ナチュラルリゾート等を運営する北こぶしリゾート(斜里町)の専務取締役を務める。世界遺産・知床の自然を強みに、アーティストとのコラボレーションなど新たな切り口で地域ブランドの向上に取り組んでいる。
北のネイチャーリゾートを目指して

北こぶし知床 ホテル&リゾートが行う様々な取り組みの背景にあるのは、明確な危機感だ。人口減少が進み、地域の担い手が減り、観光地としての勢いも少しずつ変わっていく中で、昔の延長線上に未来はない。地域の足並みが揃うのを待っていては遅い。
だからこそ、自分たちがまず動く。まず実装する。まず試す。そうして見せた道筋が、結果として地域全体の新しい基準線になる。北こぶし知床 ホテル&リゾートのリブランディングには、そんな「知床のために」という意志が貫かれている。
しかも、その挑戦を支えているのは、壮大な理念だけではない。桑島さんが繰り返し語るのは、「正しさ」や「ロジック」だけでは物事は続かないという感覚だ。
サステナビリティも地域づくりも、正しいだけでは疲弊する。必要なのは、やっている側も面白いと思えること、少しエンタメ性があること、また次もやりたくなること。失敗とは、うまくいかないことではなく、継続が止まること。
だからこそ同ホテルは、知床の自然の価値を伝えるときにも、「楽しさ」を設計の中に組み込んでいく。
その思想は、ホテル名の変更から、サウナや流氷ウォークといった体験の導入、ロビーへの長期投資、ネイチャーガイドやアーティストとの協働、さらにはヒグマとの共生を考える「クマ活」にまで、一貫して流れている。
「温泉地」の土俵ではなく、知床ならではの土俵をつくる

北こぶし知床 ホテル&リゾートのリブランディングを理解するうえで、まず押さえたいのは、同ホテルが「温泉地」という競争の枠組みから意図的に降りたということだ。
かつての屋号は「知床グランドホテル 北こぶし」。その名前には、温泉旅館・大型ホテルとしての時代の価値観が色濃くにじんでいた。しかし桑島さんは、家業に戻る前に旅行会社で営業を経験し、国内外の市場を見ていく中で強い違和感を抱くようになる。
日本の多くの観光地は「温泉地」として売られていることが多い。ウトロもそうだ。ウトロ温泉のやや茶褐色を帯びたお湯は、入浴後にお肌がしっとりする「美人の湯」として知られている。
しかし、箱根や登別、下呂などの名だたる温泉地まで含めれば、競合はあまりに多い。その中で、ウトロ温泉という名前だけで選ばれるのか。世界自然遺産・知床という土地が持つ価値を、本当にその打ち出し方で伝えきれるのか。
答えは明確だった。
「ネイチャーリゾート」への転換と先行実装
知床の価値は、温泉だけではない。むしろ、知床でしか成立しない自然体験にこそある。
流氷が海を覆う冬、野生動物がすぐそばに息づく圧倒的な自然、原生林や断崖絶壁の景観、そしてそれらを深く案内するネイチャーガイドの存在。知床は「温泉地」というより、自然そのものが旅の核になる場所だ。
ならば、最初からその価値を主語にした方がいい。そうして桑島さんたちがたどり着いたのが、「ネイチャーリゾート」というポジショニングだった。
この転換は、単なるキャッチコピーの変更ではない。競争の土俵そのものを変える意思決定だ。
地域全体で合意形成してから動くのではなく、まず自分たちが先にその路線を実装する。屋号を「北こぶし知床 ホテル&リゾート」に改め、ロゴや空間、体験、発信のすべてを「北のネイチャーリゾート」という世界観に寄せていく。その先行実装が、結果として知床エリア全体に新しい方向性を提示することになる。
家業に戻って見えた、知床のポテンシャルと停滞の危うさ
桑島さんは札幌で学生時代を過ごし、オーストラリアのブリスベンに1年間留学。その後、東京の旅行会社で働いたあとに知床へ戻った。外の世界を知ったうえで地元に戻ったからこそ、見えたことがあるという。
ひとつは、知床が持つポテンシャルの大きさだ。世界自然遺産であり、流氷が来る。ヒグマやシカ、オオワシなど野生動物の気配が濃い。これほどの自然資源を持ちながら、観光地としての見せ方がまだ十分に更新されていないのは、むしろ伸びしろだと思えた。
もうひとつは、地域の停滞が、観光地としての魅力を少しずつ削っていくことへの強い危機感だった。桑島さんによれば、子どもの頃のウトロには、今よりもはるかに濃い熱気があった。通りには人の往来があり、夜になれば飲み屋やスナックに明かりが灯り、観光客も地元の人も混ざり合いながら、町全体に活気があったという。
もちろん、単純に「あの頃に戻ればいい」という話ではない。だが、地域のなかで世代交代が進まず、観光を担うプレイヤーが固定化し、新しい事業や挑戦が生まれにくくなると、町の風景は少しずつ変わっていく。店の明かりが減り、外から訪れた人が立ち寄れる場所が少なくなり、地域内で交わされる会話や企画も似たものになっていく。
さらに、外部の視点や新しい発想が入りにくくなれば、観光地としての更新が止まり、結果として「また来たい」と思わせる魅力も静かに失われていく。そうした変化は一気に表れるものではない。しかし、気づかないうちに地域を負のスパイラルへと引き込んでいく。
北こぶし知床 ホテル&リゾートのリブランディングには、そうした危機感が強く宿っている。
兄弟経営だからこそできた、長期戦のブランド刷新

実際のところ、北こぶし知床 ホテル&リゾートの変化は、ある日突然始まったものではない。
桑島さんによれば、ブランドの方向性について当時社長だった父や兄と話し始めたのは、2010年頃からだという。兄の桑島大介さんがコーポレートや人事、財務など経営基盤を担い、桑島敏彦さんがブランディングや営業、コンテンツ、発信を担う。役割を分けながらも、目指す方向性のセンスがほぼ一致していたことが大きかった。
兄弟経営というと、対立や難しさが語られることも多い。だが同ホテルの場合、それぞれの役割が補完関係にあり、なおかつ中長期の目線が共有されていたからこそ、一気に全部を変えるのではなく、何年もかけて更新し続けるという戦い方が可能になった。
一発勝負ではなく「更新し続ける」ことこそがブランドの土台
ホテルの改装もその象徴だ。同ホテルは、全面建て替えのような一発勝負ではなく、客室、ラウンジ、ロビー、サウナ、レストランなどに対して、毎年少しずつ、しかし止めずに投資を重ねてきた。3000万円規模の改修もあれば、1億円、3億円といった大きな投資もある。
大切なのは、一度に完璧を目指すことではなく、継続的にブランドを更新し続けることだった。
この姿勢は、桑島さんたちが考える「失敗」の定義とも重なる。失敗とは、何かが当たらないことではない。途中でやめてしまうこと、更新が止まることこそが、本当の失敗だという感覚だ。
だからこそ、小さく試し、改善しながら続ける。地域やホテルのブランドづくりを、短期的な成否で判断しすぎない。その粘り強さが、北こぶし知床 ホテル&リゾートの土台をつくっている。
ロビーは売上を生まない。だからこそ投資する意味がある

同ホテルのブランド投資を語るうえで、象徴的なのがロビーへの投資だ。
ホテル経営の観点から見れば、ロビーは客室のように直接売上を生む場所ではない。投資対効果を数字で示しづらく、後回しにされやすい空間でもある。だが、桑島さんたちはむしろそのロビーを、ブランドを引き上げる重要な場所として位置づけた。
ロビーは、そのホテルがどんな世界観を持ち、どんな滞在を提供しようとしているのかを最初に伝える場所だ。ネイチャーリゾートを掲げるなら、ただチェックインするための場所ではなく、知床という土地に入っていくための“入口”でなければならない。
空間の質感、景色の見せ方、居心地、余白、アートや素材の選び方。そのすべてが、価格決定力や指名買いにつながるブランド体験の一部になる。
短期収益に直結しにくい領域に、あえて投資する。しかも一度きりではなく、継続的に手を入れていく。これは、KPIや回収計画を軽視しているということではない。むしろ、目先の回収だけでは測れないブランド資産をどう積み上げるかという視点があるからこそできる判断だ。
体験が意思決定を変える。サウナも流氷も、まず自分たちが体感する

北こぶし知床 ホテル&リゾートの変化を見ていると、サウナや流氷をはじめとした新しい体験が次々と導入されているように見える。だが、その背景には、単にトレンドを追っているのではなく、桑島さんたちが実体験を通じて価値を理解し、意思決定しているという特徴がある。
たとえばサウナ。今でこそ多くの宿泊施設が導入しているが、少し前までは、ホテルの中でそこまで大きな優先順位を持つものではなかった。けれど、自分たちで良いサウナを体験し、その滞在価値や滞在時間の延び方、旅全体の満足度への影響を実感したからこそ、「これは知床でも絶対に意味がある」と腹落ちする。流氷の季節にサウナを組み合わせることで、冬の知床に新しい魅力が生まれるという発想も、机上の議論ではなく体感から出てきたものだ。
流氷ウォークも同じだ。冬の知床はかつて閑散期だったが、流氷という圧倒的な自然現象を、ガイド付きの体験やサウナと掛け合わせることで、冬にわざわざ訪れる理由へと転換していった。結果として、2〜3月が大きな需要を生む時期へと変わりつつある。閑散期を繁忙期へ反転させる発想は、自然の価値を再編集した好例だろう。
ここで重要なのは、反対意見や慎重論を超えるのは、必ずしも説明資料ではないということだ。実際に体験してみること、専門家に伴走してもらいながら価値を身体で理解することが、組織の合意形成を前に進める。同ホテルにおけるプロダクト導入は、その積み重ねでもある。
「世界を惹きつけるような、旅する理由」をつくる
桑島さんが語る言葉の中で、北こぶしの思想を最も端的に表しているのが、「世界を惹きつけるような、旅する理由をつくり出す」というミッションだ。
ここで重要なのは、「旅の理由」が単なる宿泊の理由ではないことだ。知床は、東京からふらっと一泊で行くような場所ではない。時間もコストもかけて、わざわざ訪れる場所だ。
だからこそ、ただのトリップ(Trip)ではなく、もっと深い意味でのジャーニー(Journey)、つまり人の視座や感覚を少し変えるような体験が求められる。
その背景にあるのは、桑島さん自身の旅の原体験だ。オーストラリア留学や世界各地のネイチャーリゾートの視察を通じて、自分たちの常識が世界の中心ではないこと、場所が変われば当たり前がまったく変わることを知ったという。旅とは、AIやウェブでは代替できない一次情報へのアクセスであり、人の視座を広げるものだという実感が、今のブランドづくりの根底にあるのだ。
地元の日常を、旅行者にとっての「特別な体験」へ翻訳する
地方に住む人にとっての日常と、都市から来る旅行者にとっての非日常は、大きくずれている。そのギャップを理解せずに、地元目線の当たり前だけで商品をつくると、旅の価値は薄れてしまう。
だからこそ、知床という土地にとっての日常を、外から来た人にとっての特別な体験としてどう翻訳するかが重要になる。ネイチャーリゾートという構想は、そのギャップを埋めるための設計思想でもある。
ネイチャーガイドは、知床の価値を届ける最重要人物

知床のようなネイチャーリゾートにおいて、価値の伝達を担うのは、建物や設備だけではない。むしろ、北こぶし知床 ホテル&リゾートが重視しているのは、ネイチャーガイドという「人」の存在だ。
宿泊施設のスタッフがゲストと接する時間は、どうしても限られてしまう。一方で、ガイドはゲストと近い距離感で一定の時間をともにし、知床の自然や歴史、動物、季節の変化を身体感覚とともに伝えることができる。
様々なサービスのデジタル化や省人化が進む時代のなかで、こうした“長接点”の価値はむしろ高まっている。ネイチャーガイドは、知床の自然の価値を「翻訳」して届ける最前線であり、旅全体の印象を左右する重要な存在なのだ。
だからこそ、北こぶし知床 ホテル&リゾートは、優秀なガイドや外部専門家をどう地域に呼び込み、活躍してもらうかを重要視している。必要であれば、外部の専門家や先進的なプレイヤーとも組む。実際、地域の中だけで閉じた発想ではなく、外から新しい視点や技術を入れることで、知床の価値を再編集しようとしている。
アートは装飾ではなく、地域に応援団を増やす装置

ネイチャーガイドという「人」を通じた価値の伝達に加えて、同ホテルがアーティストとの協業を重視しているのも、まさに知床の価値を翻訳して届けるためだ。
アートは単なる装飾ではない。空間に生命感を与え、ホテルの世界観を深め、知床の自然を別の角度から解釈し直す装置でもある。
さらに、アーティストとの協業にはもう一つの意味がある。それは、関わったアーティストやクリエイターが、知床や北こぶしの発信者・応援団になってくれることだ。彼らが自分の言葉で知床を語り、作品やSNSを通じて広げていく。そのネットワークは、従来の観光プロモーションとは違う形で、地域への関心を増やしていく。
つまり、アートやクリエイティブへの投資は、空間演出にとどまらず、知床に関わる人の輪を広げる投資でもある。宿が単なる宿泊の場ではなく、地域の価値を翻訳し、共感者を増やすプラットフォームになるという発想が、ここにも表れている。
「クマ活」が目指すのは、“意識の高い人”だけに届く自然保全ではない

北こぶしの取り組みの中でも象徴的なのが、ヒグマとの共生を考える「クマ活」だ。
ヒグマは知床を象徴する存在である一方、扱い方を誤れば「怖い」「危険」というイメージだけが先行しやすい。かといって、自然保全や野生動物との共生といったテーマを真面目に語りすぎると、もともと関心の高い人しか集まらなくなってしまう。北こぶし知床 ホテル&リゾートが目指しているのは、決してそうした一部の“意識の高い人”だけが参加する閉じたコミュニティではない。
「クマ活」で重視されているのは、おしゃれに、たのしく、わかりやすく伝えることだ。アーティストと協働し、映像やデザインの力を借り、ライト層にも届く表現をつくる。
正しさやロジックはもちろん必要だが、それだけでは継続しないし、広がらない。自然への感度が高い人たちだけでなく、知床にちょっと興味を持った人、旅行で訪れた人、普段は環境問題に触れない人にまで届く入口をつくることが大切になる。


まず自分たちがやる。それが結果的に知床のためになる
桑島さんの話を聞いていて印象的だったのは、地域のためを語りながらも、「みんなで足並みを揃えてからやる」という発想に寄りかかっていないことだ。
知床全体が変わるのを待つのではなく、自分たちが信じる方向を先に実装する。
温泉地の競争から離れ、ネイチャーリゾートを打ち出す。サウナを導入する。流氷を冬の旅の主役にする。ロビーに投資する。アートを入れる。ガイドや外部人材を巻き込む。クマ活を立ち上げる。
そうした小さな実装を積み重ねることで、「知床でこんな未来を描けるのではないか」という仮説を、言葉ではなく現場で示していく。
それはある意味で、地域に対する提案でもある。規模や影響力に囚われすぎず、まずは小さくても一歩を踏み出してみる。その行動が後続のプレイヤーにとっての新しい基準線となり、やがてエリア全体のブランドを押し上げていく。
北こぶし知床 ホテル&リゾートのリブランディングは、まさにその先行者としての営みだ。
知床の未来を支えるのは、「正しさ」だけではなく「続けられる仕組み」

北こぶし知床 ホテル&リゾートのリブランディングを一言で言えば、それはホテルの見た目を変えるプロジェクトではなく、知床の未来に対する長期戦の設計だと言えるだろう。
中核にあるのは、自然をただ消費するのではなく、次の世代に繋がる形で価値を育てるという意思。そして何より「続けられる仕組み」をつくることである。正しさに縛られず、楽しさを織り交ぜながら、地域の足並みを待たずにまず自分たちが動く。
「世界を惹きつけるような、旅する理由をつくり出す」という言葉は、観光のスローガンに見えるかもしれない。けれど実際には、それは知床で生きる理由、知床に関わり続ける理由、そして知床を未来に残す理由をつくることでもあるのだと思う。
宿は地域の未来にどこまで関われるのか。その問いに対する答えは、まだ完成していない。だからこそ面白い。止まらずに試し、再生し続けること。その終わらない挑戦の姿勢そのものが、いま北こぶし知床 ホテル&リゾートが最も強く発しているブランドなのかもしれない。
