北海道の東の端、根室地域の内陸に、中標津(なかしべつ)という町がある。人口約2万2,000人のこの町は、釧路と根室のちょうど中間あたり、別海(べっかい)・標津(しべつ)・羅臼(らうす)といった一次産業の盛んな町に四方を囲まれながら、ぽつんと内陸に位置している。
町の郊外には、開陽台という展望台があり、標高270メートルの高台から見渡せるのは、根釧台地に広がる牧草地と、地平線まで続く格子状の防風林。さえぎるものが何もない、360度のパノラマが広がっている。

中標津は、周辺のあちこちから人やものが集まってくる町だ。海に面していないにもかかわらず、中標津空港があり、大型商業施設があり、根室地域の中核を担う病院がある。周辺の町で働き、暮らす人たちが、買い物のために、通院のために、あるいはただ人に会うために、この町へと集まってくる。
集まってくるのは、地元の人たちだけではない。酪農業や建設業に携わるビジネスパーソンの出張先としても、中標津町はよく利用されている。
町を歩いていて感じるのは、どこか心地よい「余白」だ。観光地として名前が知られていない、という情報の余白もある。何もない、と言ってしまえばそれまでかもしれない。
しかし、この「交差する町」に漂う「余白」こそが、中標津町の輪郭を作っているように感じる。人や機能が行き交う拠点でありながら、どこにも詰め込まれすぎていない。その隙間にこそ、新しいビジネスが生まれ、よそから来た人が居場所を見つけ、子どもたちの可能性が育っていく。
そんな中標津の性格を、そのまま体現するような場所がCOWORKING SPACE milkだ。この場所を訪れると、中標津という町がなぜ人を引き寄せるのか、その理由が少しずつ見えてくる。
「交差する町」に生まれた、人が集まる場所
町の中心部からほど近い場所に、COWORKING SPACE milkはある。朝6時から夜22時まで営業しており、事前の予約もいらない。仕事帰りに立ち寄る人もいれば、早朝から作業を始める人もいる。誰でも好きな時間に、好きな用途で使える場所だ。


館内には、外の景色を眺めながら作業に打ち込めるカウンター席もあれば、個室ブースも用意されている。仕事にも勉強にも、自習にも使える。
集中したい人はブースにこもればいいし、そうでなければ、開かれた空間で誰かと言葉を交わしながら過ごすこともできる。


milkでは、ビジネススクールや異業種交流会のような催しが開かれることもあり、単に作業をするための場所というより、次の仕事や取り組みにつながる出会いが生まれる場所、という表現の方がしっくりくる。
実は、この場所を作ったのは、地域の酪農家・竹下牧場である。竹下牧場はもともと、milkから徒歩1分ほどの場所にゲストハウス「ushiyado」を営んでいた。

館内のあちこちに、牛をモチーフにした意匠が散りばめられた宿で、「まちやど」というコンセプトの通り、宿の中だけで完結させず、宿泊者が自然と町へ繰り出していくような立地とつくりになっている。
近くの温泉に浸かり、近くの店で食事をし、歩きながら町の空気を感じる。そんな過ごし方ができるように設計された宿だ。


milkはこのushiyadoに続く形で、2022年に生まれた。名前の「milk」も、オーナーが酪農家であることに由来している。
そんなmilkを現在運営しているのは、コワーキングマネージャーの久保 竜太郎さんだ。もともと大阪の出身で、中標津には移住してきた。
久保さんは大学院生の頃、地元の分析機器メーカーへの就職を控え、「営業の修行になれば」とヒッチハイクで日本一周を計画していた。旅立つ前の住み込み先として、たまたま辿り着いたのがushiyadoだった。

旅の間もushiyadoのパンフレットを配って歩き、旅から戻った後もしばらく住み込みで働いていたという。地元の会社に就職した数年後、あらためて中標津に移り住むことを決めた久保さんは、竹下牧場の社員として働き始めた。
ちょうど牧場が、酪農以外に新規事業を立ち上げようとしていたタイミングで、久保さんはそのうちの一つを任されることになった。それが、milkである。久保さんはその後、竹下牧場を2024年に退職。独立し、milk引き継ぐことになる。
ushiyadoは元々、外から来た人と地域の人が、自然と交わる場所として機能していた。しかし、コロナ禍を経て「人と人が交わる形」は変わっていった。そこで、あらためて戦略的に交流の場をつくろうと、コワーキングスペースを始めることになった。

milkの利用のされ方も「時代とともに少しずつ変わってきている」と、久保さんは振り返る。最初の頃は、出張で訪れた人が、フライトまでの空き時間を過ごす場所として使うケースが多かった。
しかし最近では、フルリモートで働く移住者や、パートナーの仕事の都合でこの町にやってきた人、資格試験の勉強に励む学生など、利用する人の顔ぶれはずいぶん広がってきている。
移住してきたばかりの人が、milkのウェブサイトを見て「何かやってみたい」と駆け込んでくることもあるという。そんなとき久保さんは、その人のキャラクターを見ながら、合いそうな人を紹介する。
肩書きも経歴も関係なく、その人がどんな人間かだけを見て、次の出会いへとつなげていく。milkという場所を通じて、そんな「集まる場所」が育ち続けている。

「中標津モデル」を動かす、拠点性という強み
人と人がこうして自然に集まってくるのは、中標津という町そのものが、人や機能を引き寄せる「拠点」としての性格を持っているからだ。
まず分かりやすい例として、空港からのアクセスの良さが挙げられる。根室中標津空港から市街地までは、車でわずか10分ほど。この規模の町にしては驚くほど近く、道東の玄関口としての役割を果たしている。

市街地には、観光ガイドにはあまり載らない温泉も点在している。知床連山や阿寒、摩周といった火山がもたらす、豊かな温泉資源に恵まれた土地柄だ。
地域の住民が日常的に通う、いわば「穴場」のような存在で、派手に売り出されているわけではないが、暮らしに根づいた場所として愛されている。
筆者も、そのうちの一つである「ホテルマルエー温泉本館」を利用してみた。天然アルカリ性の硫黄泉で、とろりとしたお湯が肌に絡みつき、湯上がりには驚くほどしっとりとした滑らかさが残る。
生活に寄り添うシンプルな大浴場で、中標津の豊かな大地が育んだ温泉に浸かっていると、派手さはなくとも、地元の人たちに長く愛される理由がわかるような気がした。

そして夜になると、繁華街には多くのスナックや飲食店が灯りをともす。漁師や酪農家たちが、仕事終わりに一杯を楽しんでいく場所だ。周辺町村から人が集まる商業の中心地だからこそ、こうした店が数多く軒を連ねている。
中標津には、「中標津モデル」と呼ばれる言葉がある。この町がなぜ、周辺の市町村とは違う独自の構造を持つに至ったのか、その理由は町の成り立ちをたどるとよく分かる。
この一帯はもともと「標津村」と呼ばれる海沿いの村が中心で、内陸にはほとんど人が住んでいなかった。1901年(明治34年)に区画が開放されてから、北海道の拓殖計画が進むにつれて全国各地から移住者が相次ぎ、1918年(大正7年)には、根室原野一帯で2000戸を超える入植があったという。[1]
しかし、その道のりは平坦ではなかった。世界的な経済不況と、連年の冷害・凶作によって離農者が続出。特に1931年からの大凶作は、まだ入植から日の浅い開拓農民たちに深刻な打撃を与えた。
この苦境をきっかけに、それまでの穀物主体の農業から、乳牛を主体とした主畜農業へと大きく舵が切られていく。1937年(昭和12年)には国鉄標津線が全線開通して交通の要衝となり、これに伴って産業の形態も整っていった。
こうして生まれた拠点性によって、周辺の一次産業(漁業や酪農)で稼がれたお金が、この町で消費される構造ができあがる。消費地、居住地、病院などの機能がひとつの場所にまとまっているこの構造に着目し、研究者の加藤 幸治教授が「中標津モデル」と名付けたとされている。

参照:https://www.youtube.com/watch?v=qeKAynurss0
日本の多くの都市では、中心部があってその郊外に人が住む、いわゆる「ドーナツ化」が起きる。しかし中標津はその逆で、郊外で働き、拠点である街中に住むという構造になっている。久保さんはこの「拠点性」という強みを、中標津の町の中だけで完結させようとは考えていない。
中標津は、周りの市町村があってこそ成り立っている町です。だからこそ中標津が、周りの市町村のためにどんな機能を持てるかを、もっと考えていきたいと思っています。
例えば、観光にしても、行政の枠組みごとに取り組みが分かれてしまいがちだ。訪れる客からすれば市町村の境界など関係ないのに、ガイドブックさえ市町村ごとにばらばらになってしまう。
だからこそ、拠点性を持つ中標津がその縦割りをつなぐハブとして機能できるのではないか、というのが久保さんの見立てだ。
その先に見据えているのが、「道東」という単位で完結する経済圏だという。食べ物を作る場所、観光、商業、サービス業。それぞれの役割を、道東全体の中で分担していく。一次産業に特化する場所もあれば、都会的なビジネスや加工・流通の拠点になる場所もある。
実際、milkにはこれまで、根室や別海・尾岱沼(おだいとう)など、周辺地域で観光業や地域活性化に取り組む人たちが、何度も足を運んできた。筆者もそのコミュニティに参加したが、彼らのフットワークは驚くほど軽い。

普段から密に連絡を取り合い、道東というエリア全体をどう盛り上げていくか、日常的にアイデアを交わしながら動いている。
「あの人とあの人が組めば、こんな取り組みができるのでは」。そんな発想が自然と生まれる関係性が、道東にはすでに育ちつつある。
交流の中で育つ、次世代のまなざし
milkが育んできた「外とつながる」という感覚は、町の若い世代にも少しずつ波及している。milkには、学生を応援するためのプランが用意されている。受験勉強に集中したい地元の高校生たちにとっても、ここは静かに机に向かえる場所であり、実際に多くの学生が日常的に利用しているのだという。
そうした学生の中に、プログラミングを学びたいという高校生がいた。久保さんはその学生を、milk利用者の一人に紹介したことがある。東京のシステム会社でエンジニアをしている、東大大学院卒の人物だ。
二人はすっかり打ち解け、進路や大学院への編入についての相談にまで発展した。
中標津にいながら、都会の第一線で働く大人と直接つながる。人と人が交わるこの町だからこそ、生まれた出会いだった。

milkで出会えるのは、都会からやってきた大人たちだけではない。この場所には、中標津を気に入って移住してきた人たちも数多く集まっている。
学生たちにとって、そうした移住者との交流は、都会への憧れとはまた違う形で、心に残るものになっているようだ。
生まれ育った町の魅力は、住んでいる本人ほど気づきにくいものだ。しかし、他の土地からやってきて、この町を選んで暮らし始めた人たちと話していると、「当たり前だ」と思っていた景色が、違って見えてくることがある。

こうした関わり方にとどまらず、次世代との関わり方は、milkの外でも広がりを見せている。中標津の小学校では、総合学習の時間に「よりよい町にするにはどうしたらいいか」というテーマの授業が行われたことがあった。
自分たちの町をどうしたら良くできるか、子どもたち自身が考える。
そんなシビックプライドの芽生えとも言える時間の中で、子どもたちからは「カフェを開きたい」というアイデアが出た。学校の中だけでは実現できないその企画を、久保さんは課外活動として拾い上げた。


レシピ作りから、原価計算、利益率の考え方、チケットの前売り販売による「赤字にならないラインでの開業判断」まで、久保さんは実践的にレクチャーしたという。
「大人はできない理由を並べすぎる」と語る久保さんは、リスクを取る覚悟さえあれば、子どもたちにも本当にできることがあると考えている。

こうした関わり方の背景には、久保さん自身の子育ての経験がある。
3人の子を持つ親でもある久保さんは、子どもは生まれたときは誰もが可能性に満ちているが、周りの大人の一様な価値観に触れるうちに、その可能性は少しずつ閉じていってしまうと感じている。そして、その感覚は日本一周という旅の中で強く磨かれた。
だからこそ、様々な業種の大人に触れる機会を、なるべく多く持たせてあげたい。それが、久保さんが「コワーキング」という場に深くのめり込んでいった、ひとつの理由でもあるという。
町の中にいながら、外の世界と接点を持てる環境があること。そして、自分たちの手で町をより良くする経験を積めること。そのどちらもが、子どもたちの可能性という目に見えない余白を、少しずつ広げているのかもしれない。町への愛着は、きっとこうした小さな積み重ねの先に育っていく。
中標津という「ハブ」が描く、これからの形
中標津の町は「何もない」「特徴がない」と語られることも少なくない。しかし、「何もないからこそ、持てる余白がある」とも考えられる。
実際、久保さんが一番楽しんでいるのは、忙しく動き回っている瞬間だそう。何かを作り、何かをつなげ、新しい取り組みを生み出していく。その過程にこそ、充実感があるのだと語る。
単一の強みで勝負するのではなく、色々な要素をつなぐ「ハブ」に徹すること。それが、中標津にとっての強みの活かし方なのかもしれない。

ただし、そのつなぎ役としての活動には難しさもある。何かを直接生み出しているわけではないため、成果が見えにくく「最終的なアウトプットでしか表現できない」と久保さんは指摘する。ツアーという形にせよ、商品にせよ、目に見える形にしていくことが、これからの課題だ。
中標津を訪れた人、milkに立ち寄った人たちの中には、そのまま緩やかにつながり続ける人もいる。SNSで発信をする度、連絡をくれる人がいる。
しばらく静かにしていると、「あの人、どうしてるんだろう」と気にかけてくれる人がいる。全国の天気予報を見て、ふと中標津を思い出してくれる人がいる。
そういう緩やかな結びつきのことも関係人口だ、と久保さんは考えている。
中標津には、この町の「知られていなさ」そのものに惹かれて移住してきた人も一定数いる。観光地として名前が売れているわけでも、派手な打ち出し方をしているわけでもないからこそ、「自分だけがこの町の良さに気づいている」という感覚を持てる。それが移住の決め手になった人も少なくない。
そうした人たちと久保さんとの間に育っているのが、「コワーキング友達」と呼べるような関係性だ。肩書きや所属ではなく、まず「個人」としての信頼があり、そこから自然と協力が生まれていく。そんな緩やかなつながりが、中標津にはあちこちに広がっている。
久保さんがこれから実現したいのは、事業を立ち上げようとする人たちに「お節介」をすることだという。観光、宿、商品開発、あらゆる分野で、何かに偏愛を注ぎ込みたい人たちの走り出しを支える。自分がすべてを担うのではなく、つなぎ役に徹する。milkや中標津をそういう場所に育てていきたい、と久保さんは想い描く。
何もないことは、まだ何にでもなれるということでもある。中標津という町に流れる「余白」は形を変えながら、これからも新しい何かを生み、再生し続けていくのだろう。
取材協力:COWORKING SPACE milk
