2026年7月14日から15日にかけて熊本城ホールで開催された「第2回グローバル・ネイチャーポジティブ・サミット2026」。その翌日には、参加者限定の「エクスカーション」が行われた。
このプログラムの特徴は、会議室で交わされた議論を、熊本の自然や地域の現場に持ち出して考えられることにある。農林中央金庫、阿蘇グリーンストック、肥後銀行、MS&ADインシュアランス グループ ホールディングス、イオンなどが協賛し、サミットのテーマに関連した4つのコースが設定された。
4つのコースが体感させたもの
4つのコースは、いずれも熊本県内が舞台だ。しかし、訪れる場所や、学ぶテーマはそれぞれ大きく異なっていた。
1. 菊池川流域における「SATOYAMA」体験ツアー

熊本県菊池市の豊かな里山と人工林を舞台に、森林が育む水資源や生態系、景観の価値を学ぶツアー。菊池森林組合の施業現場を訪れ、森林の管理や自然環境を守る取り組みを、現場で体感する。
(協賛:農林中央金庫)
2. 阿蘇草原の聖域へ── この日だけの特別な体験。草原の守り人になる旅 ──

阿蘇の草原は、千年以上続く人々の営みによって守られてきた、生物多様性と水資源を支える貴重な環境。本ツアーでは、草刈りや野焼き、トレッキングなどを通じ、草原と水、地域の暮らしのつながりを体感し、未来へ守り継ぐ仕組みを学ぶ。
(協賛:公益財団法人阿蘇グリーンストック/協力:環境省阿蘇くじゅう国立公園管理事務所)
3. イオンふるさとの森づくり植樹体験・江津湖を巡るツアー

イオンモール熊本で、地域の自然環境に適した樹種を植える「ふるさとの森づくり」を体験。森づくりの意義や都市の生物多様性とのつながりを学びながら、熊本市最大の湧水池・江津湖を巡り、自然と地域の暮らしの関わりを体感する。
(協賛:イオン/協力:熊本市)
4. 自然と共存する流域の旅 — 球磨川ツアー

球磨川流域の豊かな自然と人々の暮らしのつながりを体感するツアー。川辺川や湿地、河岸段丘の茶畑を巡り、自然が持つ防災機能や水の恵みを学ぶ。さらに球磨焼酎や青井阿蘇神社を訪れ、2020年豪雨災害からの地域再生にも触れる。
国際会議では、「ネイチャーポジティブ」という言葉が政策や金融、企業経営など、さまざまな文脈で語られる。一方、熊本でその言葉を考えるとき、そこにあるのは抽象的な概念だけではない。阿蘇の草原や森林、地域の暮らし、文化など、実際にその土地を訪れることで初めて感じられる価値がある。
(協賛:肥後銀行/MS&ADインシュアランス グループ ホールディングス)
国際会議もまた、一つの旅だった

今回のサミットは、2022年に196カ国が合意した「昆明・モントリオール生物多様性枠組」の実施を加速させることを目的に開催され、世界各地から企業や金融機関、行政、研究機関などの関係者が熊本に集まった。
そして、もう一つ目を向けたいのが、その舞台となった「熊本」という土地である。熊本城ホールは熊本城のすぐそばに位置し、歴史的な景観を感じながら国際会議に参加できる場所だ。さらに、会議の前後には阿蘇や天草など、県内各地を訪れた参加者も少なくなかっただろう。
そう考えると、このサミットは単なる「会議」にとどまらない。国内外から人を呼び込み、地域の自然や文化に触れてもらい、その土地での体験を通じて新たな視点を持ち帰ってもらうという意味では、熊本におけるMICE観光の一つの形とも捉えられる。
会議室で語られる「ネイチャーポジティブ」と、実際に地域を歩き、自然や文化に触れる「旅」。この二つは、どのようにつながるのだろうか。そして、観光はネイチャーポジティブを実現する「一人の主役」になれるのだろうか。その可能性を熊本を軸に考えてみたい。
「地下水都市」という観光資源

熊本市では、約73万人の暮らしを支える水道水のすべてを地下水でまかなっている。サミットのセッションでも、熊本市長の大西一史氏がこの事実を繰り返し紹介していた。
これは、単なる生活インフラの話ではない。熊本では、地下水そのものが地域の大切な資源であり、観光資源にもなっている。熊本国際観光コンベンション協会も、「天然地下水都市『熊本』の水文化に触れる旅」を企画している。
阿蘇の巨大カルデラを源とする地下水は、湧水や河川、湖沼となって熊本の各地を流れ、人々の暮らしや農業を支えている。そして、その豊かな水を求めて訪れる人にとっては、熊本ならではの旅の魅力にもなる。
訪れる人と、自然の恵みを分かち合う

熊本では「水を守ること」と「水を観光資源として活かすこと」が切り離されていない。水は、観光資源であると同時に、地域の暮らしや産業を支える自然資本でもある。
サミットで肥後銀行の頭取・笠原慶久氏が語っていた「地下水はこの地域経済全体の基盤であり、農業から観光、半導体産業まですべてを支えている」という言葉も、そのことを象徴している。水を守ることが地域の未来を守ることにつながり、その価値を伝えることが観光にもつながっていく。
熊本の地下水をめぐる取り組みから見えてくるのは、自然を「守る対象」と「観光資源」に分けて考えるのではなく、自然の恵みを守りながら、その価値を訪れる人と分かち合う観光のあり方なのかもしれない。
千年の草原を歩く、という保全の形

阿蘇の草原は、誰がどのように守っているのか。そして、旅はその営みをどう支えられるのか。
エクスカーションの協賛団体の一つ、公益財団法人阿蘇グリーンストックは、1995年の設立以来、阿蘇の草原・森林・農地を「国民共有の生命資産」と位置づけてきた。農村、都市、企業、行政などが連携しながら、その価値を次世代へ引き継ぐ活動を続けている。
人と自然がともにつくってきた景観
阿蘇を象徴する「千年の草原」は、実は、人の手が入らなければ維持できない。毎年行われる野焼きによって森林化を防ぎ、草原の環境が保たれている。野焼きをやめれば草原が荒れ、「霜崩れ」と呼ばれる土砂災害のリスクも高まるという。
つまり、阿蘇の草原は「人が自然に手を加えないこと」で守られる自然ではない。人が関わり続けることで、長い時間をかけて維持されてきた、いわば「人と自然がともにつくってきた景観」なのだ。
その草原には、阿蘇を代表するヒゴタイやハナシノブ、オオルリシジミなど、56種の絶滅危惧種を含む多様な動植物が生息している。阿蘇地域が2013年に世界農業遺産、2014年にユネスコ世界ジオパークに認定され、さらに阿蘇市が2021年、2022年と2年連続で「世界の持続可能な観光地100選」に選ばれた背景にも、こうした自然と人の営みがつくり上げてきた文化的景観がある。
旅の対価が草原を守る

こうした草原の価値を、「観光」につなげる取り組みも始まっている。専門ガイドと草原を走るサイクリングや、あか牛を味わう食体験などを通じて、旅行者は単に美しい景色を見るだけではなく、草原を守り続けてきた人々の営みや、その土地ならではの文化に触れることができる。
ここで重要なのは、観光が単に「草原を消費する」ものになっていないことだ。
旅行者が阿蘇を訪れ、ガイドツアーに参加し、地域の食を味わう。その対価が地域に還元されることで、草原を維持する人々の活動を支える。自然を守ることと、観光で地域にお金が落ちることが、ひとつの循環としてつながっている。
草原の維持を地域だけで背負わない
日本政府観光局(JNTO)も、観光ビジネスと自然保護を両立させる「サステナブル・ツーリズム」の事例として阿蘇の取り組みを紹介している。
阿蘇の草原を維持するには、野焼きや放牧、輪地切りなど、多くの人手が必要になる。しかし、担い手の高齢化や減少は長年の課題だ。そこで、旅行者が支払う体験料や、企業・団体からの寄付、ボランティアによる労力など、地域外からも人や資金を呼び込むことで、草原の維持を地域住民だけで背負わない仕組みが少しずつ生まれている。
阿蘇市が観光庁の「地域一体となった観光地・観光産業の再生・高付加価値化事業」の対象地域に選ばれ、持続可能な観光地域づくりに向けたアクションプランを策定していることも、こうした動きを後押ししている。
サミットで語られていた「自然の価値を測り、金融につなげる」という発想を、阿蘇は観光の言葉に置き換えている。自然の価値を「見る・知る・体験する」ことで旅行者の行動を変え、その消費や参加を地域の自然を守る力へとつなげていく。
「守ること」と「稼ぐこと」は対立しない

熊本では、水もまた同じような可能性を持っている。熊本市は地下水を「存立基盤として保全すべき資源」であると同時に、「魅力づくりに生かすべき資源」と位置づけている。守るだけでも、観光に活用するだけでもない。自然の価値を守りながら、その価値を観光を通じて伝え、地域に還元していく。
こうした考え方は、サミットの企業パネルで繰り返し語られていた「規制と市場機会は矛盾しない」という議論とも重なる。
自然を守ることは、経済活動を制限することだけではない。むしろ、その土地にしかない自然や文化の価値を守り、それを新たな観光やビジネスにつなげることで、地域に新しい経済循環を生み出すこともできる。阿蘇の草原は、そんな「守ること」と「稼ぐこと」を対立させない観光の可能性を、わかりやすく示している。
水源涵養という「見えない旅の目的地」
サミットの企業パネルでサントリーホールディングスが紹介していた「天然水の森」の取り組みも、観光という視点から見ると興味深い。
サントリーホールディングスは2003年、熊本工場の稼働を機に熊本で水源涵養の取り組みを始めた。現在は、南阿蘇外輪山の約420ヘクタールを「天然水の森 阿蘇」として整備し、宮崎大学の監修を受けながら森林の保全・整備を続けている。
さらに、益城町の水田では2010年から地域の農家とともに「冬水田んぼ」に取り組んでいる。休耕期の水田に水を張ることで、雨や水が地下へ浸透する環境をつくり、水源涵養につなげる取り組みだ。
水を守る取り組みを観光コンテンツに
サントリーはこうした「水を守る取り組み」そのものを観光コンテンツにしている。
熊本工場では無料のガイドツアーを実施し、工場の製造工程だけでなく、阿蘇の水や土地の特徴、天然水がビールなどの商品になるまでの過程を紹介している。天然水に特化した見学コースでは、プロジェクションマッピングなども活用し、水が森や大地によって育まれていく過程を伝えている。見学の最後には、実際に製品を味わうことも可能だ。
観光は、自然を見せるだけではない

熊本工場のツアーは、一見すると一般的な「工場見学」に見える。しかし、その中身をよく見ると、企業が取り組む水源涵養や自然環境の保全を、旅行者が知るための入り口になっている。企業にとっては、水を守ることが事業を続けるための基盤になる。一方、旅行者にとっては、その土地の自然や企業の取り組みを知り、商品が生まれる背景まで体験できる。
サミットでサントリーホールディングスの担当者が「水と自然を守ることは事業の土台そのもの」と語っていたが、その「土台」を旅行者に伝える場の一つが、工場見学なのだ。
ここには、観光の新しい役割が見えてくる。観光は、自然を見せるだけではない。地域の自然がどのように守られ、企業や地域の暮らしとどのようにつながっているのかを、旅行者に伝えることもできる。
アジアの旅人が知っている「自然の価値」
サミットでは、アジアにおける「自然の価値をどう捉えるか」という議論も交わされた。
シンガポールの投資会社GenZeroの登壇者は、日本には「森林浴(shinrin-yoku)」という言葉があるように、自然の価値を文化として受け止めてきた背景があると指摘していた。
台湾のKFSホールディングスからは、灌漑や化学肥料に頼らないオーガニック茶園への支援を通じて、自然そのものの価値を大切にする取り組みが紹介された。
自然に値段をつけることを考える前に、まず「その自然にはどんな価値があるのか」に目を向ける。これは、旅にも通じる考え方ではないだろうか。森を歩き、温泉につかり、茶畑を眺める。旅先で私たちが感じている心地よさや美しさもまた、自然の価値にほかならない。
地域ごとに答えは変わる
同じセッションでは、アジアならではの課題として「水田からのメタン排出」も取り上げられた。稲作は地域の暮らしや文化を支える大切な産業である一方、水を張った水田はメタンの発生源にもなる。そのため、水を張る期間を短くするなど、農法を工夫することが気候変動対策と農家の生計の両方にとって重要だという。
ここで興味深いのが、熊本で行われている「冬水田んぼ」だ。休耕期の水田に水を張ることで、地下水の涵養につなげる取り組みだが、先ほどの「水を張りすぎない」という気候対策とは、一見すると逆のようにも見える。
しかし、どちらが正解ということではない。
大切なのは、その土地の気候や生態系、農業、暮らしとの関係を見ながら、「水をどう使うのが、その地域にとって最もよいのか」を考えることだ。何か一つの指標を最大化するのではなく、その土地にとっての最適なバランスを探す。これは、観光にも同じことが言えるのではないだろうか。
知ることが、旅を変える

旅先で水田や茶畑、森林を眺めるとき、その美しい風景だけを見るのではなく、「なぜここに水が張られているのか」「この農地はどんな自然環境とつながっているのか」と想像してみる。そうすることで、いつもの旅の風景が少し違って見えてくる。
自然を「見るもの」から「知るもの」へ。
その土地の自然と人の営みを知ることは、自然と地域の未来を考えるきっかけにもなる。これもまた、観光がネイチャーポジティブに関わる一つの方法なのかもしれない。
エクスカーションという「編集された旅」
今回のエクスカーションが4つのコースに分かれていたことも、観光の役割を考えるうえで興味深かった。
それぞれのコースには、サミットで扱われた金融、企業、地域、自然などのテーマが反映されていた。単に熊本の美しい自然や観光地を巡るのではなく、サミットで議論されたテーマを「その土地で体験する」ように設計されていたのだ。
観光が持つ編集する力
阿蘇の草原では野焼きを支える人々の話を聞き、水源の森では自然を守る取り組みの現場を見る。熊本市では、地域の暮らしを支える地下水について知る。
会議室で聞いた「自然資本」や「ネイチャーポジティブ」「水源涵養」といった言葉が、実際の風景や人の営みと結びついていく。数字や制度だけでは、なかなかイメージしにくい自然の価値も、その土地を歩き、そこで暮らす人の話を聞くことで、ぐっと身近なものになる。
これは、観光が持つ「編集する力」なのではないだろうか。観光は、名所を順番に訪れるだけではない。その土地にある自然や文化、産業、人々の営みをつなぎ合わせ、「この地域には、こんな価値がある」と旅行者に伝えることもできる。
旅人も、ネイチャーポジティブの一員になれる
サミットの会場で「自然を守ることは、規制なのか、それとも新しい市場機会なのか」という議論を聞きながら、私が思い出していたのは、阿蘇の草原ガイドが語っていたという「野焼きを見るだけでなく、なぜ必要なのかを知ってほしい」という言葉だった。草原の成り立ちを知り、あか牛を味わい、水源の森を歩き、工場見学で水が育まれる物語に触れる。
一つひとつは、普通の旅の体験に見えるかもしれない。しかし、その体験を通じて地域の自然や文化を知り、そこでお金を使うことが、結果として草原や森林、水資源を守る活動を支えることにつながっている。
サミットで交わされていた自然資本をめぐる議論も、たどっていけば旅人一人ひとりの小さな選択につながっている。どこへ旅するのか。何を体験するのか。どこで食事をするのか。そして、何にお金を払うのか。
ネイチャーポジティブは、企業や金融機関、行政だけが取り組むものではない。旅人も、その一員になれる。今回の熊本ネイチャーポジティブサミットでのエクスカーションは、旅そのものが自然の回復に参加する方法になり得ることを、あらためて教えてくれた。

