イタリア中部のアブルッツォ州は、観光の考え方を大きく転換した地域です。観光客の数を増やすことよりも、自然や地域の暮らしを守ること自体を観光価値として打ち出しています。
国立公園、野生動物との共生、散在型ホテル、廃線跡の活用など、地域資源を保全しながら観光に活かす仕組みを整えてきました。本記事では、アブルッツォ州の取り組みを整理し、日本の自治体が応用できるポイントを紹介します。
アブルッツォ州の観光の基本像

日本では広く知られていないアブルッツォ州 [1] ですが、イタリア国内では長年にわたり、「自然を満喫する場所」として確固たる地位を築いてきました。ローマの東側、アドリア海とアペニン山脈の間に位置し、州内には高山、森林、国立公園、海岸線、中世の村が密集しています。数時間の移動で山・海・文化を一度に体験できる、非常に希少な地域です。
多くの日本人がイタリア観光と聞いて思い浮かべるのは、ローマ、フィレンツェ、ベネチアなどの歴史都市でしょう。しかしアブルッツォ州は、それらとは異なり、都市観光中心ではなく、生活・自然・滞在体験を重視する地域です。[2] この違いを理解することが、同州の観光戦略を読み解く第一歩となります。
おもな来訪者層と旅行需要の傾向

アブルッツォ州は国際的な観光地ではないため、訪問者の中心は国内旅行者です。ローマ圏(ラツィオ州)からは車で約2時間の近さから週末旅行の需要が多く、山歩きやスキー、海水浴、農村レストラン訪問などが目的です。
ナポリなど南部都市からは夏季に海岸部リゾートとして利用され、家族旅行の目的地としても選ばれています。ミラノなど北部都市からの旅行者は、長期休暇で訪れ、トレッキングやスキー、村滞在、ワインや食文化体験を重視します。欧州圏(ドイツ、英国、オランダなど)からは、エコツーリズムやサイクリング、自然観察を好む専門志向の旅行者が徐々に訪れるようになっています。
このように、世界的な知名度は高くないものの、国内で着実に支持される安定型の観光地として位置づけられます。
観光地としての強みと来訪者の特徴

アブルッツォ州の観光の特徴は、来訪者の「数」よりも「性質」にあります。外国人旅行者の集中率が低く、国内旅行者を基盤とする安定型の需要があり、リピーターが多く、長期滞在志向が強いことが挙げられます。
旅行者は静けさや自然、本物志向を重視しており、観光客数の急増を狙うのではなく、質の高い滞在を維持するモデルが確立されています。その結果、観光収益を確保しつつ、過度な混雑や景観破壊を避けることが可能になっています。
アブルッツォ州のおもな観光スポットと体験

アブルッツォ州の魅力は、単一の有名観光地に依存するのではなく、山岳・海岸・歴史文化・体験型観光がバランスよく存在している点にあります。
山岳・自然資源
アブルッツォ州の自然資源は、広大な国立公園に支えられています。
- グラン・サッソ・エ・モンティ・デッラ・ラガ国立公園
標高2,100mのカンポ・インペラトーレ高原とアペニン山脈の最高峰を含むグラン・サッソ山塊はいずれも園内に位置し、雄大で荒涼とした景観から「イタリアのチベット」と称されます。
敷地内には第二次世界大戦中にムッソリーニが幽閉されていたホテルも現存し、登山や高原トレッキング、スキー、スノーシューなど、季節を問わず多彩なアウトドア体験の拠点として国内外の旅行者に人気です。
- マイエッラ国立公園
古代修道院跡や巡礼路、洞窟、原生林が残る地域で、宗教史や地質学、生態系の価値が高く、教育旅行にも適しています。
- アブルッツォ・ラツィオ・モリーゼ国立公園
ヨーロッパ有数の野生生物保護地域で、ヒグマやオオカミの生息地として知られています。自然観察ツアーや保護活動プログラムが整備され、環境教育の拠点としても活用されています。
アブルッツォの山岳地帯は自然景観に留まらず、歴史・教育・アウトドア体験が融合した社会インフラとして価値を持っています。
海岸景観と広域観光ルート
アドリア海沿岸には、独自の景観と観光ルートがあります。
- トラボッキ海岸
海上に張り出した「トラボッキ」(固定式漁網を操るための木製建築)が点在し、他地域にはない景観を形成しています。レストランとして利用されるものもあり、海上で食事を楽しめます。
- ヴィア・ヴェルデ・デイ・トラボッキ
廃線跡を整備した約42kmのサイクリング・歩行ルートで、海岸線をゆるやかに結びます。旧駅舎のカフェやレンタルサイクル拠点、休憩所などが整備され、自然と文化をつなぐ観光動線になっています。複数の自治体が協力することで、広域的な観光資源が形成されています。
村落景観と歴史文化資産
アブルッツォはボルギ(歴史ある美しい村々)の宝庫です。
- ロッカ・カラーショ
丘の上の石造要塞で映画ロケ地としても知られ、荒涼とした高原との組み合わせが特異な景観を生みます。
- サント・ステーファノ・ディ・セッサニオ
石造りの中世集落が残る村で、散在型ホテル(アルベルゴ・ディフーゾ)の成功例として国際的に注目されています。
- スルモーナ
ローマ時代の都市遺構や中世広場が残る歴史都市で、伝統菓子コンフェッティの産地としても有名です。
これらの村は、生活空間そのものを観光資源として活用しています。
滞在型・体験型観光プログラム
アブルッツォ州の観光は見るだけでなく、体験することに価値があります。村滞在型宿泊、野生動物共生プログラム見学、サイクリングツアー、地元食材を使った料理体験、洞窟探検や自然観察など、多彩な体験が提供されています。
知られていない価値をどうブランドにしたか

アブルッツォ州は首都ローマの東側に位置しながらも、長い間「イタリアの秘境」と呼ばれてきました。かつては農業の衰退や若い世代の流出が続き、人口減少に直面する地方の典型例と見られていた地域です。しかしこの地域は、そうした不利と考えられていた条件を見直し、地域らしさとして活かす方向へと舵を切りました。
イタリア全体では、2023年の宿泊観光客数が約1億3,300万人に達し、宿泊延数の約半数を国外客が占めています。 [3] 主要都市では観光客の集中による混雑が課題に。
一方、アブルッツォ州では国外客の割合は比較的低いものの、2023年の宿泊観光客数は約170万~180万人規模となっており、前年から着実に増加しています。さらに、2025年は宿泊数が前年比約23%増加するなど、アブルッツォ州の観光市場はここ数年で大きく成長していることがうかがえます。観光は地域経済において重要な役割を担う産業の一つとなっています。
ここで注目されるのは、来訪者の数だけでなく滞在のあり方です。ベネチアのような通過型・消費型の観光とは異なり、アブルッツォ州は、ゆっくり滞在し地域に触れる観光地としての位置づけを築いてきました。
自治体は有名観光地が少ないことを弱点と見るのではなく、まだ広く知られていない生活文化や、本来の地域の姿が残っている点を魅力として打ち出しました。こうして「知られていないこと」自体を価値に変え、地域のブランドの核に据えたのです。
こうした考え方は、近隣地域と似た施設整備や画一的な観光開発に進みがちな日本の地方にとっても、方向性を見直すヒントになります。地域の個性を丁寧に見つめ直し、それを軸に観光を組み立てることが、結果として他地域との差別化につながります。
保護区域を地域づくりに活かす

アブルッツォ州の戦略の中心には、州土の約3分の1を占める国立公園や自然保護区という環境資産があります。[4] 一般には開発の制約と見られがちな保護区域ですが、同州ではこれを、他にはない景観と体験を守る強みとして活用してきました。
公園は自然を守る仕組みにとどまらず、地域を支える基盤として機能しています。開発を認めない区域と利用可能な区域を分けるゾーニング、地域の専門職として育成する認定ガイド制度、学校や研究機関を受け入れる教育プログラムなどにより、観光だけに頼らない収益と雇用を生み出しています。
こうして自然は「眺めるもの」から、学びや体験を生む地域の資源へと位置づけられ、持続的な地域づくりを支える役割を果たしています。
クマと共に生み出す新しい地域の魅力

アブルッツォ州の山間部では、絶滅危惧種のマルシカン・ブラウンベア(アペニンヒグマ)が村に降りてくることが長年の悩みでした。家畜被害やゴミ荒らしなどの課題をきっかけに、地域全体でクマとの共生を進める取り組みが生まれました。これが ベア・スマート・コミュニティ(Bear Smart Community) です。自治体は NGO と協力し、住民参加型の対策を実施しました。[5]
- 電気フェンスで家畜や財産を守る
- クマ対策用ゴミ箱で生活圏の安全を確保
- 住民にクマの習性を教育し、「クマが住める村」として発信
結果として、2020年に約250人だった観光客は、2024年には約2,400人にまで急増。観光客はクマを見るだけでなく、クマと共に暮らす知恵や暮らしを体験するために訪れるようになり、地域の物語がそのまま観光価値になっています。
アルベルゴ・ディフーゾ(散在型ホテル)で進める空き家再生

アブルッツォ州のボルギでは、アルベルゴ・ディフーゾ(散在型ホテル) を活用した空き家再生が進められています。この仕組みは、日本の空き家問題の解決策としても参考になる取り組みです。
サント・ステファノ・ディ・セッサニオ村では、崩れかけた石造りの家を当時の建築様式を守りながら客室として再生しました。[6] 散在型ホテルの一般的なモデルとしては、フロント機能を村の中心に置き、客室は歴史的建物に分散。食事や買い物も地域の店舗を利用する形で、村全体が宿泊体験の舞台となっています。
新しい巨大ホテルを建てる必要はありません。村全体を活かすことで、景観を保ちながら投資効率を高めることが可能です。
宿泊客が体験するのは豪華な設備ではなく、かつての村の暮らしの生活感なのです。村の路地を歩き、住民と挨拶を交わすことで、一時的に村人としての日常が楽しめます。この体験こそが、高額な宿泊料金を正当化する所以なのです。
観光開発=新しい建物を建てる、という従来の発想を見直し、既存の生活文化や建物を非日常体験として提供することが、地方創生の重要なカギとなっています。
廃線跡を活用した広域連携の観光ルート

ヴィア・ヴェルデ・デイ・トラボッキは、単独の自治体では実現が難しい広域連携の成功例です。使われなくなった鉄道の廃線跡をサイクリングやウォーキングの観光ルートとして再生し、地域全体の活性化と経済効果に結びつけています。[7]
約42kmにわたる廃線跡を整備し、自然や歴史、食文化を楽しみながら巡れるルートにしています。複数の自治体が協力することで、単独では生まれにくい広域的な観光資源が形成されています。ルート上にはアドリア海に突き出したトラボッキも点在し、景観や文化が途切れなく体験できるため、訪れる人は地域全体をひとつのストーリーとして楽しめます。
旧駅舎や関連施設は、カフェやレンタル拠点、休憩所として改修され、民間事業者も参加しやすくなりました。これにより、観光客の滞在時間が延び、地域内での消費も増える仕組みが生まれています。
さらに「Costa dei Trabocchi – Territorio Sostenibile」というブランドが、環境への配慮や地域への貢献、持続可能性への取り組みなどの基準を満たした事業者を認定する制度として導入される予定です。[8] また、GoldやSilver の段階認証により、事業者の取り組みを分かりやすく示し、品質向上への意欲を後押しする仕組みとなります。
自治体にとっては、こうした共通ブランドによる品質の見える化をインフラ整備や観光施策とあわせて進めることで、地域の魅力向上につながり、結果として観光客の滞在時間の延長や観光消費の拡大にも結び付いていくと考えられます。
持続可能な地域再生を実現する3つのポイント

アブルッツォ州の取り組みは特別な制度や巨額投資によって成り立っているわけではありません。むしろ、日本の地方でも応用できる取り組みの進め方に特徴があります。
1. 不便さを「体験価値」として言語化する
地方では、交通の不便さや商業施設の少なさなどを弱点と捉えがちです。しかし近年の旅行者は、便利さそのものよりも「そこでしか得られない時間」を求める傾向があります。重要なのは、不便さを解消することではなく、その不便さがどんな体験につながるのかを明確にすることです。
- 日帰りしにくい立地なら、星空観察や早朝散策など宿泊前提の体験をセットにする
- 店舗が少ない地域なら、宿泊者に地域飲食店を案内し、地域全体で滞在を支える仕組みを作る
- 静かな環境なら、ワーケーションやデジタルデトックスなど、都市と切り離された時間そのものを価値として提示する
このように、「不便だから行きにくい」ではなく、「この環境だからこそ味わえる体験がある」という語り方に変えることが、地域ブランドづくりの第一歩になります。
2. 観光収益が地域に残る流れを先に作る
観光振興では来訪者数の増加を目標に掲げがちですが、人数が増えても地域に利益が残らなければ持続性は生まれません。大切なのは、観光客が使ったお金が地域内で循環する仕組みを最初から設計しておくことです。
- 宿泊と地域飲食店の利用を組み合わせたクーポンを用意し、消費が地域に分散する導線を作る
- 宿泊税や体験料の一部を景観保全や文化維持に充て、観光収益が地域環境を守る仕組みを可視化する
- ガイドや体験提供、食事づくりなどに住民が関われる形を整え、観光が副収入になる機会を増やす
こうした仕組みがあると住民にとって観光は負担ではなく、生活を支える要素になります。合意形成を呼びかける前に、利益が届く構造を先に作ることが重要です。
3. 開発ルールと品質基準を早い段階で共有する
観光が伸びてから規制を考えると、景観の乱れや過剰開発が起こりやすくなります。持続可能な地域づくりでは、むしろ初期段階で「どのような開発なら歓迎するのか」を明確にしておくことが効果的です。
- 新築を制限するエリアと、改修を推奨するエリアを分けるなど、景観ゾーニングを事前に設定する
- 地元食材の使用や建物外観などの基準を定め、地域独自の認証制度を設ける
- 単独自治体でのPRではなく、広域で共通名称やルートを作り、地域全体でブランドを共有する
- 新規大型施設よりも空き家や既存建物の再生を優先する方針を明文化する
ルールが明確な地域ほど住民も事業者も判断しやすくなり、結果として質の高い投資や参入が集まりやすくなります。
3つのポイントの関係性
これらは独立した施策ではなく、互いに支え合う関係にあります。
- 不便さを体験価値として整理することで、地域らしい観光の方向性が定まり
- 収益が地域に残る仕組みを整えることで、住民が保全と観光に主体的に関われるようになり
- 明確なルールを設けることで、地域の価値を損なわない形で投資や利用が進みます
この循環が機能すると、観光は来訪者数を増やすだけの手段ではなく、地域の自然・文化・暮らしを守りながら経済を支える仕組みとして定着していきます。
まとめ
アブルッツォ州の地域戦略は、観光資源の価値を単に消費するのではなく、地域の自然や文化、生活そのものをブランドとして活かす点に特徴があります。国立公園や高原、歴史的村落、廃線跡などを保護・整備しながら、滞在型・体験型観光の形に変換することで、観光客が地域に触れ、学び、共感する体験を提供しています。
さらに、住民が収益の受益者となる仕組みを設計し、環境や文化の保全が経済的価値と直結することを可視化することで、観光ブランドの信頼性を高めています。こうした取り組みは、施設や観光名所の宣伝に頼らず、地域の本質的価値を軸にブランドを築くことの重要性を示しており、地方観光戦略においても参考になる成功モデルとなっています。
参考文献
[2]Turismo: D’Amario, boom Abruzzo nei primi cinque mesi del 2025 | Regione Abruzzo
[3]International visitors to Italy | EU Tourism Platform
[4]Abruzzo: nature, parks and local wines – Italia.it
[6]Sextantio Albergo Diffuso: An Immersive Trip Back in Time – Stay Distinct
[7]La Via Verde della Costa dei Trabocchi: economia che funziona tutto l’anno – GuidaViaggi
