「空気がおいしい」という言葉を、比喩ではなく、地域の価値として実際に体験できる場所があります。
イタリア北部・南チロル州の最北エリアに位置し、オーストリア国境にも接するヴァッレ・アウリーナ(イタリア語名:Valle Aurina / ドイツ語名:Ahrntal アールンタール)は、80以上の3,000m級の山々に囲まれたアルプスの谷です。[1]
この地域では、氷河を源とする水系と広大な森林が織りなす自然環境の中で、産業遺産と観光、そしてウェルビーイングが統合された独自の観光モデルが展開されています。
本記事では、かつて銅鉱山として栄えたこの地域が、どのようにしてリジェネラティブツーリズム(再生型観光)の先進事例へと進化してきたのかを読み解いていきます。
ヴァッレ・アウリーナとは

南北約40kmにわたって細長く伸びるこの谷は、急峻な地形ゆえに手付かずの生態系と独自の文化が守られてきました。ヴァッレ・アウリーナが単なる景勝地を超え、なぜ「心身を整える場」となり得るのか。その基盤となる自然のメカニズムと、季節がもたらす恩恵から紐解いていきましょう。
水と森がつくるアルプスの環境資源

ヴァッレ・アウリーナは「水の谷」とも呼ばれるほど、水資源に恵まれた地域です。氷河を抱く山々から流れ出す雪解け水は谷全体へと広がり、滝や渓流を生み出しながら、豊かな水系を形成。この循環は、景観だけでなく生態系を支える重要な基盤となっています。
標高の高い斜面には広大な針葉樹林が広がり、谷全体の環境を安定させる役割を果たしています。森林は水の流れと相互に作用しながら、地域特有の穏やかな微気候を維持する存在です。
また、ヴァッレ・アウリーナの大部分は自然保護区域であるリゼルフェルナー=アールン自然公園に含まれます。[2] 厳格に守られた自然環境は、観光資源としての価値にとどまらず、地域住民の暮らしを支える基盤でもあり、訪問者にとっても本質的な体験価値を生み出しています。
365日、アルプスの躍動を五感で楽しむ
ヴァッレ・アウリーナは、アルプスの自然環境を一年を通じて体験できる地域です。周辺には複数のスキーエリアが広がり、合計約86kmにおよぶスキーコースを整備。積雪条件に恵まれた地形により、安定したウィンタースポーツ環境が形成されています。
冬季には、広大な雪原を滑るスキーのほか、クロスカントリースキー用のトレイルが4コース整備されています。また、7本のそり滑走コースに加え、スノーシューを使ったハイキングや雪上散策など、多様なアクティビティを提供。アルプス特有の静けさの中で、雪と一体になるような体験が可能です。
一方で夏季には、山岳地帯がまったく異なる表情を見せます。ヴァッレ・アウリーナはハイカーにとって理想的な環境であり、独立峰や渓谷が織りなす雄大な景観が広がっています。氷河と牧草地が共存する地形は、アルプスの自然が持つ多層的な魅力を体感できる舞台と言えるでしょう。
ヴァッレ・アウリーナが実現する自然と観光インフラの調和

ヴァッレ・アウリーナでは、アルプスの自然環境と調和するかたちで観光インフラが整備されています。単にアクセスを良くするだけでなく、自然体験の質を高めながら、地域経済を支える仕組みとして設計されている点が特徴です。
ラインバッハの滝

サンド・イン・タウファース近郊にあるラインバッハの滝は、ヴァッレ・アウリーナを象徴する自然スポットのひとつです。[3]
遊歩道が整備されており、訪問者は滝の間近まで歩いてアクセスでき、水が岩肌を流れ落ちる迫力や轟音、森に包まれた静けさといった自然を五感で体感できます。
ヴァッレ・アウリーナにおける自然体験は、景色を眺めるだけでは終わりません。環境そのものに身を置くことで、呼吸や感覚がゆっくりと整っていくプロセスもヴァッレ・アウリーナの魅力です。
滝周辺は、呼吸のしやすさやリラックス感を高めると示唆する研究もあり、ウェルビーイングの観点からも注目されています。
タウファース城

タウファース城は、険しい山岳地帯に位置しながら、アルプスを越える交通の要衝としても重要な役割を果たしてきた、地域の歴史と文化を今に伝える象徴的な存在です。
13世紀初頭、谷を見下ろす岩の上に築かれ、防衛拠点として使われていました。その後、増改築が重ねられ、やがて貴族の居城としての性格を強めていきます。[4]
現在は内部が一般公開されており、図書室や騎士の間、礼拝堂に残るフレスコ画などを通して、中世から近世にかけての暮らしや文化を知ることができます。
アルパイン・コースター「クラウスベルク・フリッツァー」

ヴァッレ・アウリーナを訪れたらぜひ体験したいのが、アルパイン・コースター「クラウスベルク・フリッツァー」です。[5]
全長約1,800mのコースを滑り降りるこのアクティビティは、アルプスの斜面を活かしたダイナミックな体験が魅力です。レールに沿ってカーブや高低差を楽しみながら進む構造となっており、自然の中を駆け抜ける爽快感を味わえます。
クラウスベルク・フリッツァーはレジャーとしてだけでなく、観光戦略としても重要な施設です。積雪量に左右されやすい山岳地域において、季節に依存しない集客を可能にし、地域の雇用や経済を安定させる通年観光の基盤として機能しています。
アルプスの自然を活かした体験と、地域の持続可能な観光を支える仕組み。その両方を体現している点に、クラウスベルク・フリッツァーの価値があります。
負の遺産を再生型観光の拠点へ | プレドーイ銅鉱山の転換

ヴァッレ・アウリーナの最奥部に位置するプレドーイは、かつて欧州有数の銅の採掘地として栄えた場所です。長い歴史の中で地域経済を支えてきましたが、時代の変化とともに閉山を迎えました。
多くの鉱山が産業遺産として保存される中、プレドーイでは坑道という空間そのものを、新たな価値へと転換する取り組みが進められています。
気候療法という再生戦略
坑道の一部は現在、「気候療法(Klimastollen)」の場として活用されています。[6] 気候療法とは、洞窟や鉱山など特定の環境が持つ安定した気候条件を活かし、心身のコンディションを整えることを目的とした滞在型のアプローチです。
鉱山の入り口からトロッコ列車で坑道内へ進むと、外界とは切り離された静かな空間が広がります。地下深くの環境は外気の影響をほとんど受けず、温度や湿度が安定しているため、高いリラックス効果があります。
「何もしない時間」が生み出す価値
坑道内での過ごし方はシンプルです。訪問者は防寒着を身につけ、リクライニングチェアに横たわり、静かな環境の中で呼吸を整えながら一定時間を過ごします。
特別な運動やプログラムをするのではなく、「何もしない時間」そのものを体験として設計している点が特徴的です。外界から切り離された静寂の中で過ごす時間は、日常とは異なる感覚をもたらします。
資源の再定義という発想
プレドーイの取り組みが示しているのは、単なる保存ではなく「機能の再設計」です。かつて資源を掘り出すための場所だった鉱山が、現代では人の滞在と回復を支える空間へと役割を変えています。産業遺産を破壊せず、展示にとどめるのでもなく、新たな価値を付与することで地域資源として再生している点が大きな特徴です。
自然環境と歴史資産を活かしながら、現代のニーズと接続する。ヴァッレ・アウリーナは、観光を通じて地域の価値を再構築するモデルを示しています。
観光局と事業者が描く「Future Ahrntal」 | 国際基準に向けた地域経営

ヴァッレ・アウリーナは、プレドーイ銅鉱山における気候療法という独自の観光資源をもっています。そしてその価値を一施設の成功にとどめることなく、地域全体へと展開する取り組みが進められています。
「健康・癒やし」というテーマは、個別の観光資源を超え、谷全体のブランドコンセプトへと発展しました。さらに近年では、持続可能性を客観的に示すため、国際基準との整合を意識したマネジメント体制の構築も進みつつあります。
国際基準と地域認証の連動
持続可能な観光をめぐっては、多様な国際基準や認証制度が世界各地で導入されています。一方で、その定義や基準が曖昧なまま「サステナブル」という言葉が使われるケースも少なくありません。
ヴァッレ・アウリーナが属する南チロル州では、こうした状況に対し、明確な評価体系を持つ地域認証制度が導入されています。その中心となるのが「Sustainability Label South Tyrol」です。[7] この制度は、観光事業者や地域全体の取り組みを段階的に評価する仕組みであり、環境保護、地域経済、社会的責任、マネジメント体制などを総合的に審査する構造になっています。
持続可能な観光のための国際基準「Global Sustainable Tourism Council(GSTC)」の考え方に沿って設計されている点も、当認証の特徴です。地域独自の制度でありながら、国際基準と同様の評価体系を備えています。
競合が手を取り合う「Future Ahrntal」
GSTCなどの国際基準に地域全体で対応するために立ち上げられたプロジェクトが「Future Ahrntal(未来のアールンタール)」です。[8]
「アールンタール(Ahrntal)」とは、ヴァッレ・アウリーナのドイツ語名であり、地域そのものを指す言葉です。南チロルではイタリア語とドイツ語が併用されており、ヴァッレ・アウリーナと同義で使われています。
他の地域では、同じエリアに立地するスキー場や宿泊施設は顧客を巡って競合することが多くあります。しかしヴァッレ・アウリーナでは、クラウスベルクとシュパイクボーデンの2大スキー場をはじめ、観光局、宿泊事業者が連携し、地域単位での運営体制を構築してきました。
個別の利益ではなく、谷全体の価値を高めることを優先しています。環境負荷の低いモビリティの整備やプラスチック削減、地域産食材の活用など、持続可能性に関わる取り組みを共同で進めています。
エネルギー基盤が支える持続可能性
ヴァッレ・アウリーナの取り組みを支える重要な要素の一つが、エネルギー政策です。
谷の中心に位置するサンド・イン・タウファースでは、再生可能エネルギーの活用が進められ、地域単位でのエネルギー効率の向上が図られてきました。水力やバイオマス、太陽光といった再生可能エネルギーを組み合わせ、地域内で循環させる仕組みが構築されています。
こうした取り組みは、欧州のエネルギー政策評価制度である「欧州エネルギー賞(European Energy Award)」において最高位であるゴールドを獲得するなど、高く評価されています。
ヴァッレ・アウリーナが示すリジェネラティブツーリズムの未来
ヴァッレ・アウリーナは、アルプスの豊かな自然と産業遺産を活かしながら、観光を地域の持続可能性へと結びつけている先進的なエリアです。水と森が育む環境に加え、タウファース城やラインバッハの滝といった文化・自然資源、さらにプレドーイ銅鉱山を活用した気候療法など、多様な価値が一体となって地域の魅力を形づくっています。
ヴァッレ・アウリーナでみられる環境・経済・社会のバランスを意識した観光地運営は、観光を単なる消費活動にとどめず、「地域を再生する仕組み」として捉え直す可能性を示しています。
参考文献
[1]Vacation in the Holiday area Ahrntal valley – South Tyrol, Italy
[2]Rieserferner-Ahrn nature park
[3]Hiking trails to waterfalls in Ahrntal valley and Sand in Taufers/Campo Tures
[4]Castle Taufers: Information, History & More
[5]Whizzing down the Slope during Summer – Klausberg – Skiworld Ahrntal
[8]Holiday area Ahrntal valley strategy plan: Vision | Mission | Strategic goals | Values
