MENU
  • リジェネラティブツーリズムについて
  • カテゴリー別
    • リジェネラティブツーリズム
    • 社会
    • 環境
    • 経済
  • イベント
  • 用語集
  • 企業、自治体、DMO、観光事業者の皆様へ
  • メルマガ登録
  • English
お問合せ
リジェネ旅
  • イベント
  • 事業者の皆様へ
  • メルマガ登録
  • English
リジェネ旅
  • イベント
  • 事業者の皆様へ
  • メルマガ登録
  • English

「私は川であり、川は私である」ニュージーランド・マオリの再生型観光が、日本に問いかけるもの

2026 5/28
リジェネラティブツーリズム
ニュージーランド マオリ 取材 持続可能な観光
2026-5-28
  1. ホーム
  2. リジェネラティブツーリズム
  3. 「私は川であり、川は私である」ニュージーランド・マオリの再生型観光が、日本に問いかけるもの

観光は、何のためにあるのか。入込客数を増やすことか。あるいは、消費額を伸ばすことか。それらの指標を追いかけることが目的化したとき、観光は「消費させるための仕組み」になってしまう。

地域は消費される側に置かれ、文化は商品として切り売りされ、自然は摩耗していく。持続可能性という言葉がいくら叫ばれても、観光を「目的」として捉える構造そのものが変わらなければ、歪みは形を変えて繰り返される。

その歪みが各地で限界を迎えつつある今、観光のあり方そのものを見直す動きが広がっている。「リジェネラティブツーリズム(再生型観光)」という概念だ。

従来の「サステナブルツーリズム(持続可能な観光)」が現状を維持することを目指すのに対し、リジェネラティブツーリズムは、さらに一歩踏み込む。傷ついた自然や文化、地域コミュニティを回復させ、より豊かな状態へと戻していく。リジェネラティブツーリズムとは、観光をその手段として捉え直す試みだ。

先住民族の価値観が、観光政策をどのように形作るか

リジェネラティブツーリズムを牽引するリーダー国として、世界から注目を集めているのがニュージーランドである。ニュージーランドは、天空まで続くような山脈と、世界遺産のフィヨルドランドを擁する島国であり、恐竜時代から姿を変えぬ爬虫類トゥアタラが今も生息する、地球の時間の深さを肌で感じられる場所だ。

爬虫類トゥアタラ
出典:Unsplash / Harley Lin

しかし、ニュージーランドが世界から注目を集めるのは、その圧倒的な自然環境があるからだけではない。先住民族であるマオリの価値観が観光政策に影響を与え、さらには観光業の一部で「量より質」を重視する動きが広がっているためだ。

そんなマオリの価値観を「主流の観光」と「ビジネスの現場」に根付かせようとしている組織がニュージーランド・マオリ観光局(NZMT)である。マオリが経営する観光事業者を支援し、マオリの価値観に基づいた観光のあり方をニュージーランド全土へと広げることを、その使命としている。

同局CEOのDame Pania Tyson-Nathan(デイム・パニア・タイソン・ネイサン)氏は、まさにその使命を体現する人物だ。「デイム」は、ニュージーランドにおける女性への最高位の叙勲称号である。彼女は、マオリの価値観とビジネスをいかに統合するかを長年実践し、世界各地の国際会議やフォーラムで問い続けてきた。

Official photo of Pania
Dame Pania Tyson-Nathan, CEO of NZMT 提供:New Zealand Māori Tourism

そんなパニア氏が語る視点の源は、マオリの世界観「テ・アオ・マオリ(Te Ao Māori)」にある。マオリにとって自然とは、人間が管理・消費する「資源」ではなく、対話すべき祖先であり、家族だ。

例えば、マオリ語には「カイティアキタンガ(Kaitiakitanga)」という言葉がある。これは「守護」と「責任」の概念を表し、自然環境を次世代へ引き継ぐ義務を意味する。単に「環境を大切にする」という意味にとどまらず、自然から受け取ったものを、より豊かな形で次の世代へ返すという、積極的な責任の概念だ。

他にも「マナアキタンガ(Manaakitanga)」は、人や場所への深い「敬意」と「おもてなし」を意味する。この「マナアキタンガ」は、日本の「職人の精神」と通じるものがあると、パニア氏は語る。職人とは、素材と向き合い、使い手を想い、仕事そのものに誠実であろうとする人だ。その姿勢は、人や場所への「深い敬意」を行動として体現する「マナアキタンガ」と、確かに等しい。

「カイティアキタンガ」や「マナアキタンガ」など、これらの概念は単なる精神論ではなく、多くのマオリの人々が、人や場所と関わる際の姿勢を今も形作っている「生活そのもの」の原則だ。

観光は乗り物であり、目的地ではない

パニア氏はマオリの哲学を、抽象的な理念にとどめない。ビジネスのあり方そのものを問い直すために、繰り返し語る言葉がある。それが、「Culturalizing Commerces」だ。日本語に訳せば「商売を文化的に行う」ということになるが、その意味するところはさらに奥が深い。

例えば、ヨガやアーユルヴェーダを見てみると、「商売を文化的に行う」の構造がわかりやすくなる。5000年以上の歴史を持つインドの伝統的な医学・哲学体系は、その深い精神性を保ちながら、世界市場へと広がりを見せた。

インド政府は「Heal in India」を国家戦略として掲げ、アーユルヴェーダやヨガを輸出可能な高度サービスとして位置づけている。伝統的な知恵を無秩序に流出させるのではなく、世界基準の品質認証を整備した。

2023年には外国人向けに「Ayush*ビザ」を創設するなど、制度面からも受け入れ体制を整えている。2024年には約64万人の外国人が医療目的でインドを訪れており、文化の深みが経済的な価値に直結している。(*1)

*Ayush: Ayurveda(アーユルヴェーダ)、Yoga & Naturopathy(ヨガ&自然療法)、Unani(ウナニ)、Siddha(シッダ)、Homoeopathy(ホメオパシー)の頭文字。いずれもインドの伝統医療・代替医療。

ヨガを経験するインバウンド旅行客

インドが提供しているのは、マッサージやエクササイズという切り取られた機能的な商品ではない。食事、瞑想、自然との調和といった、インド古来のライフスタイルそのものだ。

自国の深い精神文化の「真正性」を最大の付加価値とし、世界中の人々を直接招き入れる。文化をビジネスの素材として使うのではなく、ビジネスを文化のために機能させる。それが「Culturalizing Commerce」の意味するところだ。

観光は乗り物であり、目的地ではありません。世代を超えた幸福、経済的自立、文化的強さ、そして環境再生のための道具なのです。

まず「人」と「場所」があり、ビジネスはそのための奉仕者であるべきなのです。

観光を「乗り物」と捉えるとき、問われるのは「どこへ向かうのか」だ。数字の達成ではなく、人と場所の豊かさへ。その方向が定まって初めて、ビジネスは正しく機能する道具になる。

さらにパニア氏は、こう警鐘を鳴らす。観光を「訪問者経済」という単一のレンズで捉え続ける限り、目の前にある多くの「未開発の価値」を見逃すことになる、と。食から投資まで、文化を中心にあらゆる経済活動をつなぐ。そうした包括的(ホリスティック)な視点に立ったとき、観光は「訪問者を迎える産業」という枠を超え、地域の営みそのものと分かち難い存在になる。

Māori tourism key visual option
提供:New Zealand Māori Tourism

こうした哲学を最大限に機能させる上で不可欠なのが、観光産業が「その地域固有の価値観」を深く理解し、訪問者に対して、一貫したメッセージを発信することだ。観光事業者だけがその哲学を持っていても意味がない。宿泊、食、交通、行政、地域住民。関係者全員がその価値観を深く共有し、訪問者に向けて一貫して体現することによって、文化的な誤解を防ぎ、真の価値を提供できる。

文化は、なぜコモディティになるのか

「数」を追うことへの問題は、文化を観光に取り入れようとするときにも、形を変えて現れる。訪問者に喜んでもらいたい、もっと伝わりやすくしたい。そう思うがあまり、文化に手を加え、整え、わかりやすくパッケージ化してしまう。しかしその瞬間、文化はどこにでもある消費財、つまりコモディティ(商品)になっていく。

なぜそうなるのか。文化とは本来、その土地に生きる「人々の営み」そのものだ。特別な演出を加えなくても、そこに在るだけで固有の価値を持つ。しかし、「伝えよう」「見せよう」という意識が強くなるとき、文化は「提供するもの」に変わる。提供する側と受け取る側という関係が生まれ、文化は舞台の上に乗せられる。

本物の体験として届けるために必要なのは、特別な演出ではない。その土地の日常の中に、訪問者が自然に触れられる接点を用意しておくことだ。そしてその接点の一つが、「言語」だと考えられる。

言語とは、単なるコミュニケーションの道具ではない。ある集団の人々が同じ環境の中、同じ感覚を共有するとき、その意識が集合した結果として言葉が生まれる。ネットスラングが、インターネットを日常的に使う人々の間でしか通じないように、言葉はその文化の中にいる人々が育て、その文化の外では生きられない。どんな文化においても、言語はその中心にある。

だからこそ、その土地の言葉で伝えることには、固有の意味がある。もちろん、国際共通語である英語でガイドをすることの必要性は否定できない。しかし「英語が話せないから」という引け目は、私たちが思うよりもずっと小さな障壁なのかもしれない。

Māori tourism
提供:New Zealand Māori Tourism

たとえ言葉の意味がわからなくとも、訪問者はその言葉の響きや間合いの中に、文化的な「何か」を感じ取ることがある。パニア氏は、アジアをはじめ、自然や共同体との深いつながりの中で生きてきた人々は、「言葉が通じなくても、文化を持つ者同士として理解し合える”何か”を持っているのではないか」と、さらなる可能性を見出す。

グローバルサウスの台頭とともに、文化的な感性を共有する人々の存在感は増している。旅する側が、現地の文化に歩み寄るのが本来の姿だ。日本がありのままでいることの価値を、世界はすでに求めている。

かつて、マオリによる観光といえば、「文化ショー」というイメージが強かった。舞台の上で演じられるハカ、観光客向けに整えられたパフォーマンス。それは確かに迫力があり、訪問者を魅了したけれども、一方的な「見せる」という構造があった。

今、マオリ観光業界が目指すのはその先だ。訪問者は体験の前に、しっかりとしたブリーフィングを受ける。自分がこれから何に参加しようとしているのか、その文化的な意味を事前に理解した上で、体験に臨む。

Marae
マオリの伝統的な家屋、マラエ 提供:New Zealand Māori Tourism

例えば、マオリの伝統的な家屋(マラエ)に入る前には、靴を脱ぐ。それは単なるルールではなく、外の世界から悪いものを持ち込まないという、マオリの世界観に根ざした行為である。

何を共有し、何を守るかは、コミュニティが決める。訪問者に伝えられる物語は、その土地の人々が選んだものだ。聖地には立ち入れない領域があり、知識には開示できない深さがある。境界線を引くことは、拒絶ではなく「自分たちの文化を守る強さ」と言えるだろう。

もし、その境界線の内側にある体験を提供するならば、高い対価を求めることをためらう必要はないのだ。文化の深みに触れる体験は、それだけの価値を持っているのだから。

パニア氏が「知識はコンテンツではない」と指摘するように、文化を情報として切り取った瞬間、そこに宿っていた文脈や精神性は失われる。だからこそ、訪問者には相互性(レシピプロシティ)が求められる。

行動や学びを通じて、時には、その場所のプロジェクトを直接支援することで、訪問者は自分が何かを「もらった」だけでなく、「何かを残した」という感覚を持って帰路につく。その還元は、経済的なものにとどまらない。社会的なつながりとして、そして次の世代へと受け継がれる文化の継承として、広がっていく。

NZMT activity photo - He Kura Tawhiti.jpg
He Kura Tawhiti 提供:New Zealand Māori Tourism

NZMTは「観光商品」という言葉を使わず、常に「観光体験」と呼ぶ。商品は消費されて終わる。しかし体験は、人を変える。その体験設計の根底には、訪問者を「消費者」ではなく、その土地の「守り手」として迎えたいという想いが込められている。

「守り手」は、その土地の文化や自然を「次の誰かへと引き継ぐ存在」として関わる。旅をした後も、その場所のことを思い、語り、大切にする。そうした関係が生まれるとき、訪問者とその土地の間には、相互の期待が育まれる。

間違った行動に、報酬を与えてはならない

マオリは長年、自分たちの価値観とは相容れないシステムの中で、彼らの事業を営むことを余儀なくされてきた。植民地支配以降、根付いてきた資本主義的なシステムが求めるのは、短期的な数と効率だ。その圧力は、文化や環境をすり減らしかねない。

この構造は、ニュージーランド政府との関係にも表れる。政府が「より多くの観光客を」と求める一方で、マオリ観光局は「Less is more*(少ないほうが豊かだ)」と主張する。数を増やすことが正義とされるシステムの中で、マオリの価値観はつねに逆風にさらされてきた。

*Less is more: 建築家ミース・ファン・デル・ローエが提唱したとされる言葉。装飾を排した簡潔さこそが豊かさをもたらすという思想に由来し、転じて「シンプルであることが最善」という意味で広く使われる。

数を増やすことだけが目標になれば、文化を切り売りしてでも集客しようとする行動が「正解」になってしまう。それは間違った行動に報酬を与えることと同じです。

私たちはそうではなく、長期的な価値と評判に基づいたビジネスケースを構築することで、その圧力を乗り越えてきました。

短期的な数や効率だけを追い続けるとき、視野からこぼれ落ちるものがある。地域の文化が長い時間をかけて育んできた固有の価値、自然環境との関係性、そしてコミュニティへの影響だ。

だから、視点を別の場所に置き、捉えている景色を変える必要がある。個人や単一の事業者の利益を超え、コミュニティ全体、そして自然環境までを含めた長期的な価値へと視座を上げたときに初めて、目先の効率化では見えなかった「本物の価値」が姿を現す。

NZMTが実践してきたのは、まさにその視点の置き換えだ。「譲れない一線」を定め、すべての中心に人と場所を置く。資本主義的な圧力を乗り越えるために、「商売を文化的に行う」という原則に立ち返る。それが、地域の真のオーセンティシティ(本物であること)を守ることにつながっていく。

Lake Tekapo, New Zealand
ニュージーランド、テカポ湖 出典: Unsplash / Tobias Keller

その視座を、NZMTは組織の日常そのものに埋め込んでいる。現在、同局では祖父母世代から若者世代まで、4つの世代が共に働き、同じ組織の中で日々議論を重ねている。「若者たちには手を焼かされますがね」とパニア氏は笑うが、その多世代が交わる議論の中から生まれる判断基準は、いたってシンプルだ。

私たちの意思決定には、一つの問いを使います。「今日下す決断について、孫たちは何と言うだろうか?」ということ。マオリの組織が50年計画や100年計画を持つことは、珍しくありません。

もしその決断が、目先の利益を増やすものであっても、人や場所、文化を傷つけるものであれば、それは決して、成功とは見なされないのです。

利益は「目的」ではなく「結果」であるべきです。コミュニティを傷つけて得たお金の代償は、後に信頼の喪失、運営許可の喪失、そしてアイデンティティの喪失という形で返って来るでしょう。

信頼やアイデンティティは、一度失われれば、取り戻すことが極めて難しい。だからこそ、利益は正しい行いの後に自然とついてくる「結果」であるべきなのだ。

しかしながら、その実践は一朝一夕に完成するものではない。基準の一貫性の維持、予算の逼迫、オーバーツーリズムの回避、インフラの整備、労働力不足。世界から「リジェネラティブツーリズムの成功モデル」として注目されるニュージーランドも、まだまだ課題は尽きない。

その中でも、「再生」が本当に実現できているかどうかを、単なるマーケティングキャンペーンではなく、コミュニティが信頼できる方法で測定すること。パニア氏はその重要性を強調する。「私たちマオリは、進歩を誇りに思っています。しかし、旅の途上にあることもまた知っているのです」と語るその言葉は、常に前を向いている。

“サステナビリティ”という言葉は、いつしかそれ自体が一つの市場になってしまいました。

言葉で語るのはもう十分です。とにかく、実行しましょう。

言葉が消費されるとき、その言葉が本来持っていた力も失われていく。問われるべきは概念の定義ではなく、実践だ。マオリの価値観を示す言葉を掲げながら、その本質を理解しないまま使う。そうした表面的な借用は、日本の観光産業でも見覚えのある光景ではないだろうか。

「おもてなし」「サステナブル」という言葉が溢れる一方で、その本質が問われることは少ない。言葉の奥にある深さを理解してこそ、実践は始まると言える。

本物の体験は、まだ知られていない

2026年1月末までの1年間に、ニュージーランドを訪れた日本人は年間約7万5000人 (*2) にも上るが、パニア氏はその数字を踏まえて「私たちが理解しているのは『日本市場』であって、『日本文化』ではないかもしれない」と指摘する。

市場としての日本は把握している。しかし、日本人がどのような感性を持ち、何を求めて旅をするのか。その深さまで理解できているかは、別の問いだ。

その問いは、日本側にも向けられている。例えば、ニュージーランドの地方都市を訪れると、日本人旅行者にほとんど出会わない。タラナキ山を望むニュー・プリマスのような場所は、固有の自然と文化に満ちているにもかかわらず、日本ではほぼ知られていない。

多くの日本人旅行者が「写真映えする象徴的な景色」を求めて移動する一方で、本物の自然や文化体験の価値はうまく伝わらない。そして皮肉なことに、地元に暮らす人々自身も、自分たちの足元にある価値に気づいていないことがある。

New Plymouth
ニュージーランド、ニュープリマス地方 筆者撮影

この問題を前にパニア氏は長年、国立マーケティング機関の政策に改善を求めてきた。しかし今、AIの普及により状況は大きく変わると確信している。AIによって、人々の旅の仕方が変わるだけでなく、これまで光の当たらなかった場所が、世界に知れ渡るようになるだろう。

かつて人は「検索する」ことで、自分に近い情報に辿り着いた。しかし今、AIに自分の「要望」を伝えれば、その要望を叶えてくれる観光地を提案してもらえる。「ニュージーランドで本物のマオリ体験がしたい」と入力すれば、国中の選択肢が並ぶ。マーケティング機関の予算や方針に左右されることなく、地方の小さな場所でも、世界中の旅行者の画面に届く可能性が生まれた。

だからこそ集中すべきは、AI検索に対して「AI-Ready(AI対応可能)」な状態を整えることだ。そのためには情報発信が不可欠であり、予算やフライトの本数に左右されない戦略が必要となる。

自分たちが変えられることに集中する。長年、観光の最前線を歩んできたパニア氏が、「孫たちの世代とともに未来を切り拓いていくために、私は“誰よりもAIを使いこなすおばあちゃん”になりますよ」と浮かべた笑顔に、確かな希望が宿っていた。

「再生」の感性は、どこから来るのか

観光という行為そのものを、地域の自然や文化を消費する力ではなく、「再生の力」として機能させる。では、マオリはその「再生」をどのように実践しているのか。パニア氏が強調するのは、マオリにとってこの「再生」は、新しく採用した戦略でも、外から持ち込まれた概念でもないということだ。

Maunga Taranaki
タラナキ山とワンガヌイ川 提供:New Zealand Māori Tourism

再生型観光は私たちのDNAです。私たちは「私は川であり、川は私である」と言います。抽象的な話に聞こえるかもしれませんが、これは真実なのです。

国連や我が国の政府が、生命体としての権利を認めた自然資産が私たちにはあります。再生は私たちが日々生きていることであり、民族としての不可欠な一部なのです。

マオリの世界観において、人間と自然は分離した存在ではなく、同じ命の連続の中にある。川が汚染されれば、自分自身が傷つく。森が失われれば、自分自身の一部が失われる。だからこそ、自然を守ることは義務でも責任でもなく、自分自身を生きることと同義なのだ。

その思想は、ニュージーランドの法律にまで具現化されている。マオリの聖地であるタラナキ山やワンガヌイ川は、人間と同じように「権利を持つ存在」として認められている。自然を「資源」として管理する発想とは、根本から異なる世界観がそこにはある。しかし、この世界観はマオリだけが持つ特別なものなのだろうか。

実は、マオリと日本の先住民族アイヌの間には「古木協定(Ancient Trees Agreement)」と呼ばれるつながりがある。北海道の古木と、ニュージーランドの古木。それぞれの土地に深く根を張る木を介して、二つの民族は関係を築いてきた。長い時間を生き、土地の記憶を宿す木を等しく敬う者同士が、言葉も距離も超えて引き合う。二つの民族の間に、何が共鳴しているのだろうか。

Ancient Trees Agreement - Tāne Mahuta
古木協定 – ターネ・マフタ(森の神) 提供:New Zealand Māori Tourism

アイヌの人々は、自然界のあらゆるものに「カムイ」と呼ばれる神が宿ると考えてきた。そこにあるのは、自然を管理し、消費するという発想ではない。存在への「感謝」と「対話」だ。

「私は川であり、川は私である」というマオリの言葉と、アイヌのカムイの世界観は、同じ場所から生まれているように思う。自然と人間が分離していない世界。人間もまた、大きな命の連続の中にいるという感覚。そしてアイヌは、遠い異国の民族ではない。日本列島に長く生き、この土地の自然と深く向き合ってきた人々だ。その感性は、日本人の自然観の深い層と、静かにつながっている。

私たち日本人にも、自然を自己の一部、あるいは対話の相手として捉える自然崇拝やアニミズムの感覚が、脈々と受け継がれてきたように思う。私たちは「風のそよぎ」や「雨の音」を、ただの物理的なノイズではなく、母音を多く含む豊かなオノマトペ(擬音語・擬態語)に変換することで、意味を持った「声」として受け取ってきた。

虫の声に孤独を重ね、波の音に心の揺れを聴くその感性は、古来の俳句や和歌にも色濃く刻まれている。自然を支配すべき「対象」としてではなく、言葉を交わす「存在」として認知している。マオリの言う「私は川であり、川は私である」という言葉は、実はこの感性と同じ場所から生まれているのではないか。

出典: Unsplash / Finan Akbar

これまで「リジェネラティブツーリズムの先進事例」として、ニュージーランドを羨望の目で見ていた。しかしながら、「再生」の核にある感性は、決して遠い異国の話ではなく、私たち自身の中にずっと宿っていたのだと気づく。

けれども、現代の日常は「自然と対話する」その感覚を眠らせる。空調の効いた室内、デジタル画面、効率化された移動。そうした環境の中では、頭で「自然を大切に」と理解しても、心はなかなか動かない。知識として持っていても、実感として持っていない。その差は、思いのほか大きい。

だからこそ、旅には力がある。訪れた大地を踏み締め、五感を通して地域の営みとつながるとき、人の心には、観光地のパンフレットには載っていない、かけがえのない実感が生まれる。

川のせせらぎ、森の空気、何気なく交わした町の人との挨拶。その記憶は、時間が経っても色褪せない。いつかその場所が失われてしまったとしたら、という喪失の想像が「環境保護」という言葉では届かなかった場所に、そっと手を伸ばす。

訪れることで、より良い人間になる

「再生は鍛錬であり、目的地ではない」とパニア氏は語る。到達すべきゴールではなく、日々の実践として積み重ねていくもの。その言葉の先に、パニア氏が描く未来の姿がある。

100年後のニュージーランドを想像する時、私の孫たちが、より健全な土地と海、より強い文化、そして人や環境を慈しむことが経済的にも正しく報われる社会であってほしいと願います。

観光の観点から言えば、訪問者は私たちの国を単に消費して去るのではなく、より良い人間になって帰っていくはずです。より責任感を持ち、他者とつながり、自分たちの故郷をも慈しむようになるでしょう。

観光が提供できるのは、単なる体験のパッケージではない。眠っている感性を呼び覚まし、訪れた人の中に「あの場所」という固有の記憶を宿すことだ。

その記憶こそが、「何をもらうか」ではなく「この自然や文化のために何ができるか」を問い直すきっかけになる。パニア氏はその思いを、日本へ向けたこんな言葉で表した。

私は、他の国でも見られるようなものを見るために、日本へ行くのではありません。日本人の「鼓動」を知りたい。「魂の歌」を聴きたい。そして、私はそのために喜んで対価を支払います。飛行機を降りた瞬間から、文化体験は始まっているはずです。

あなたの国の言葉を聞き、あなたの国の食べ物を食べ、寺院を訪れ、買い物をする。あらゆる接点で文化体験ができることを期待しているのです。

訪問者が本当に求めているのは、その土地にしかない、その土地が長い時間をかけて育んできたものだ。それは巨大な施設を建てることでも、特別なプログラムを用意することでもない。必要なのは、私たち自身が「自分たちの文化の価値」に本当の意味で気づくこと。そしてその感性は、私たちがすでに持っているものである。

旅とは、その眠っている感性を呼び覚ます機会だ。そして観光に携わる者の役割は、その機会を丁寧に設計することではないだろうか。特別なことをする必要はない。その土地の日常の中に、旅人が五感でつながれる接点を用意しておくこと。それが、「再生」につながる観光の、最も素直な姿だと思う。

取材協力:New Zealand Maori Tourism

リジェネラティブツーリズム
ニュージーランド マオリ 取材 持続可能な観光