朝食会場で迷っていたときに、さりげなく案内してくれたスタッフ。久しぶりの訪問にもかかわらず、「お変わりないですか?」と声をかけてくれた支配人。
旅の思い出を振り返るとき、私たちは意外なほど「人」のことを覚えています。客室や料理の質も大切ですが、また泊まりたい、誰かにすすめたいと思うきっかけは、その場所で交わした言葉や、受け取った小さな親切ではないでしょうか。
観光現場が抱える「笑顔の裏側」の課題

一方で、観光産業の現場では、働く人に大きな負担がかかりやすい現実があります。具体的には、人手不足や長時間労働、不規則なシフト、繁忙期の負荷集中などです。お客さんの前では笑顔で立っていても、その裏側では疲れがたまり、心身ともに余裕をなくしている現場も少なくありません。
こうした現場の苦しさは、労働市場の構造的な問題とも深く結びついています。帝国データバンクの2024年調査によると、ホテル・旅館業の正社員における人手不足率は71.1%に達しており、全業種のなかでも突出した水準となっています。しかしその一方で、宿泊業の労働生産性は全産業平均の4割にとどまっており、賃上げの原資を確保すること自体難しいのが現状です。[1]
つまり、「人が足りない」という量の問題と、「十分な報酬を提供できない」という待遇の問題が、同時進行で現場を圧迫しているのです。実際に「顧客満足度を上げたい。でも、現場はもう限界に近い」と感じている現場スタッフや経営層の方も多いでしょう。
持続可能な経営には従業員の幸せが不可欠

今、国内外で共通して見えてきている解決策があります。それは、「従業員満足度を上げることが、持続可能な経営につながる」というアプローチです。「ただの理想論では?」と思われるかもしれませんが、これは単にやさしい会社を目指す精神論ではありません。
働く人の幸福度を高め、働きやすさを整えることは、結果としてサービス品質やリピート率、採用力の向上に直結するという事実があります。環境や制度を整えることは、最終的に経営を強くするための戦略なのです。
なぜ観光産業では「従業員の幸せ」が重要なのか

観光産業は、設備や立地だけで価値が決まるわけではありません。お客さんが受け取る体験は、フロント、レストラン、清掃、送迎など、あらゆる接点で形づくられます。つまり、サービスそのものが「人を通して提供される」産業なのです。
だからこそ、現場で働く人の状態が、そのままお客さんの満足度に反映されます。心に余裕のあるスタッフは、相手の表情を見て小さな変化に気づき、以下のような柔軟な行動をとることができます。
- 疲れ気味のお客さんに、ゆっくりと語りかける
- 子連れの家族に、先回りして配慮する
- 急な予定変更にも、快く対応する
反対に、疲弊した現場では、必要最低限の対応で精いっぱいになってしまいます。
「個人の頑張り」に頼る限界
ここで大切なのは、これらを個人の問題にしないことです。「接客がうまい人や体力のある人が頑張ればいい」という考え方には限界があります。日本の観光産業で「人が足りない」「若者が定着しない」と言われる背景には、以下のような構造的な問題があります。
- 繁閑差が大きく、土日や連休に休みづらい
- シフトの見通しが立ちにくい
- 感情労働が多いのに、心のケアが後回しになる
こうした状況では、どれだけ立派な理念を掲げても、働き続けたい職場にはなりません。それでは具体的にどのような要素が従業員の満足度向上には必要なのでしょうか?
観光産業の従業員満足度を高める5つの施策

ここからは、国内外の先進的な研究や事例をもとに、観光産業が今日から取り組める「5つの施策」をご紹介します。
大規模なシステム投資や、大幅な賃上げだけが正解ではありません。働く人の「心」に寄り添い、人と組織が共に成長できる環境づくりのヒントを見ていきましょう。
① 声を聴く仕組みをつくる
従業員満足度を高める出発点は、実はシンプルです。現場の人たちが「言いたいことを言える場所」があるかどうか。スイスに拠点を置くホテル専門の教育・研究機関であるEHL(ホテル学校ローザンヌ)の調査では、スタッフが意見・提案・懸念を率直に表明できるチャネルの有無が、エンゲージメントを大きく左右すると指摘されています。
意見箱でも、上司との短い1on1でも、形はなんでもかまいません。大切なのは「話せる場所が複数ある」こと。そして「話したことが、何かにつながる」という体験を積み重ねることです。意見を伝えても何も変わらない、そう感じた瞬間から、人は声を上げることをやめていくからです。[2]
ただ、年に一度のサーベイや定期的な意識調査だけでは「変化に追いつけない」という実態もあります。そのため、従業員がもやもやを感じた時に共有できる仕組みがあるのが望ましいと言えます。
ロンドンで複数の高級ホテルを展開するThe Stafford Collectionは「Empowered Program」という従業員向けの取り組みを実施しました。

スタッフから匿名の意見をリアルタイムで収集する仕組みを整え、現場の声に経営陣がすぐさま対応するというものです。このプログラムを導入した結果、メンタルヘルスサポートの導入など、具体的な職場環境の改善につながっています。従業員定着率は過去最高を更新し、導入から90日以内にコストを回収したといいます。[3]
② 燃え尽きを防ぐ
長時間勤務、読めないシフト、繁忙期の負荷集中。観光産業でバーンアウトが起きやすいのは、個人の弱さではなく、構造的な問題です。
職場環境と従業員エンゲージメントを専門に研究するGallupの調査によると、エンゲージメントの高い従業員を持つ企業は、そうでない企業と比べて収益性が23%高く、顧客ロイヤルティが10%向上したことが分かりました。しかし、疲弊した職場にどれだけ良い施策を並べても、それが届く前に人が離れてしまいます。
まず取り組みやすいのは、スケジュールの予測可能性を高めることです。シフトの見通しを早めに伝え、交換を柔軟に認める。それだけで「自分の生活を自分でコントロールできる」という感覚が生まれます。
またメンタルヘルスのサポートや育児支援なども、「うちの職場はあなたのことを気にかけている」というメッセージを伝えるのに効果的です。例えば世界最大級のホテルチェーンであるHiltonはメンタルヘルス支援と柔軟な勤務形態を組み合わせる「Thrive at Hilton」プログラムを提供しています。

このように大手チェーンでは従業員中心の設計がすでに差別化の軸になっています。
大きな制度が必要なわけではありません。「あなたのことを気にかけている」と伝わる小さな行動の積み重ねが、長く働き続けたいという気持ちをつくっていきます。
③ 仕事そのものを面白くする「Playful Work Design」という考え方
研修を充実させ、福利厚生を整え、評価制度を見直す。そうした取り組みはどれも大切です。しかし、それだけでは日々の業務の単調さやストレスを根本から変えるには限界があることが、科学的にも指摘されています。
そこで注目されているのが、2025年に国際的な学術誌ScienceDirectに掲載された「Playful Work Design(PWD)」という考え方です。日本語にすると「遊び的業務設計」。難しそうに聞こえますが、核心はシンプルです。「仕事に、楽しさや挑戦の要素を自分で組み込んでいく」ということです。
これは上から押しつけられたゲームや強制参加のイベントとは明確に異なります。たとえば、フロントのスタッフが「今日一番パーソナライズされた接客ができたのは誰か」をチームでゆるやかに競う。レストランのスタッフがメニューを紹介するときに、少し物語っぽい語り口を自分なりに工夫してみる。そういった、小さな「自分なりの楽しみ方」を業務に持ち込む行為がPWDです。
この研究が明らかにしたのは、こうした自発的な工夫が以下のような「自律性・有能感・関係性」という人間の根本的な欲求を満たすということです。
- 自分で考えて動ける余地がある(自律性)
- 挑戦して成長できる(有能感)
- 仲間との連帯感が生まれる(関係性)
これらが満たされたスタッフはモチベーションが高まり、与えられた仕事をこなすだけでなく「もっとよくできないか」と自ら動き出すようになります。[4]
管理職として最初にできることは、マニュアルを徹底することより「自分なりに工夫する自由」を現場に渡すことかもしれません。
④ 成長の道筋を見せ、「ここにいる理由」をつくる
人が職場に長くいるかどうかは、「この場所で自分は成長できているか」という感覚と深く結びついています。前述のEHLの調査でも、キャリアパスの透明性と能力開発の機会は、離職を防ぐ主要な要因として一貫して挙げられています。
たとえば、世界80か国以上でホテルを展開するHyattは、若手スタッフの育成を目的に「RiseHY」というプログラムを立ち上げています。これは、入職後のメンタリングやさまざまな職種を経験できるクロストレーニングを通じて、若者に明確なキャリアパスを示す取り組みです。

こうした仕組みがあることで、若手スタッフは「ここでなら自分の未来が見える」という実感をもてるようになります。日本の観光産業でも、特に若い世代は給与よりも「ちゃんと教えてもらえる」「任せてもらえる」「認めてもらえる」を重視する傾向が強まっています。[5]
⑤ 「ありがとう」を届ける
貢献が認められることは、給与と同じか、それ以上に、人のモチベーションを動かします。MarriottやSheratonなど多くのブランドを傘下に持つホテルグループ・Starwoodでは、ゲスト満足度と従業員エンゲージメントを連動させた評価の仕組みを取り入れることで、スタッフの主体性と顧客満足向上を同時に実現しています。
朝礼での一言の感謝、社内ニュースレターでのスタッフ紹介、ゲストからの「あのスタッフさんが素晴らしかった」という声を本人に届けること。こうした小さな承認の積み重ねが、職場の空気を少しずつ変えていきます。
同時に、報酬の透明性も見逃せないポイントです。チップの配分がわかりにくい、給与の計算が不明瞭、こうした不信感は、じわじわと職場への信頼を削っていきます。「この職場は公平だ」と感じられることが、安心して長く働ける環境の根っこになるのです。
「幸せな職場」は、つくれる
ここまで紹介してきた5つの施策に共通しているのは、働く人を「コスト」ではなく「大切な人」として扱うという、当たり前のようで意外と後回しにされてきた視点です。
声を聴く仕組みをつくること。無理のない働き方を設計すること。業務に楽しさと意味を持たせること。成長を支えること。貢献に感謝すること。どれも特別なことではありません。しかし、これらが重なったとき、職場はつらい場所から楽しい、成長できる場所に変わっていきます。
観光産業の人手不足や離職率の高さは、すぐには解決できない問題です。しかし、その入口は意外と身近なところにあります。笑顔の裏側を支える職場があってこそ、ゲストの記憶に残る「あの人」が生まれるのです。
[1]帝国データバンク「人手不足に対する企業の動向調査(2024年4月)」
[2] EHL, “Employee engagement: The method behind hospitality success”
[3] HSMAI, “Transforming Employee Engagement in the Hospitality Industry”
[5] eTip, “How to Maximize Employee Engagement and Retention in 2025”
