太陽ミュージアム~No Charity, but a Chance!~から学ぶD&I。多様性を受け入れる、大分県別府市の魅力とは?

多くの産業では今、深刻な人手不足という課題に直面しています。その解決策として労働人口の裾野を広げ、高齢者、外国人、障がい者など、多様な人材の活用を促進することが注目されています。
こうした多様な人材の活躍を後押しする背景として、社会全体でダイバーシティ&インクルージョン(多様性と包容性)への意識が高まりつつあることはご存じでしょうか。
多様な人材が活躍できる、環境づくり。そのヒントは大分県別府市の「太陽の家」の取り組みに隠されているかもしれません。
今回、社会福祉法人 太陽の家の企業理念と歴史が凝縮された「太陽ミュージアム~No Charity, but a Chance!~」を訪問しました。
そこには、障がいのある方の可能性を信じ、共に生きる社会の実現を目指した中村裕博士の熱い想いが込められていました。
太陽の家創設者である中村裕博士が、太陽の家とともに歩んできた道のりを通して、人材不足の課題に対するダイバーシティ&インクルージョン(D&I)の可能性を探ります。
社会福祉法人 太陽の家について
社会福祉法人 太陽の家は、大分県別府市に本部を置く、障がい者の自立支援を目的とした福祉施設です。
中村裕博士は、戦後の混乱期を経て、1965年に障がい者が社会の一員として自立できる社会を目指し、太陽の家を設立しました。
大分県別府市に生を受けた中村裕博士は、1951年に九州大学医学専門部を卒業後、同大学整形外科医局に入局し、医師としてのキャリアをスタートさせます。
当時、医学的リハビリテーションはまだ十分に開拓されていない分野でしたが、中村裕博士は研究に足を踏み入れ、イギリスのストーク・マンデビル病院に留学したことをきっかけに、パラスポーツ発展への道を歩み始めます。
ストーク・マンデビル病院では、医師をはじめとする様々な専門家が連携し、当時としては新しい手法であるスポーツをリハビリに導入し、障がい者の社会復帰を支援するために先進的な取り組みを行っていました。
この光景に感銘を受けた博士は、それまで社会参加が困難とされていた障がい者の、就労による自立とスポーツの可能性に強い情熱を抱くようになります。

中村裕博士は、日本国内にとどまらず、南太平洋の島々にも足を運び、障がい者の現状を把握するとともに、国際的な連携を模索しました。その経験を活かし、日本政府や関係機関への働きかけを積極的に行い、1964年東京パラリンピックの日本開催を実現に導きます。
しかし、パラリンピック開催中、海外選手の自立した姿を目の当たりにし、中村裕博士は大きな衝撃を受けました。日本の選手とは対照的に、海外では多くの選手が手に職をつけ、大会後の東京の街を自由に満喫していたのです。
日本における障がい者の自立支援はまだまだ未熟であることに気づかされ、働く場所をつくりだす必要性を実感します。
その後、中村裕博士は「世に身心障害者はあっても、仕事に障害はあり得ない」という理念を掲げ、1965年、障がい者の就労支援と社会参加を促進する社会福祉法人「太陽の家」を創設しました。
オムロン株式会社の創業者、立石一真氏との出会い
中村裕博士の歩んだ道のりは、決して平坦なものではありませんでした。設立当初は、資金難や仕事の確保、そして社会の偏見との闘いなど、多くの困難に直面します。
中村裕博士は、様々な企業に協力を求めましたが「障がい者にできる仕事などない」と多くの企業は考えていたため、なかなか理解を得られませんでした。そんな中、オムロン株式会社の立石一真氏(前身の立石電機株式会社の創業者)と出会います。
従来より「企業は社会の公器である」を信条としていた立石一真氏は、中村裕博士の想いに共鳴。中村裕博士の尽力によって、太陽の家はオムロン株式会社とともに、特例子会社「オムロン太陽電機株式会社」を大分県別府市に設立します。東京パラリンピック開催から8年が過ぎた、1972年のことでした。その後、1990年に「オムロン太陽株式会社」に社名変更しています。

当時、オムロンが製造していたリレーソケットの組み立て作業を、オムロン太陽が請け負うことになりました。
リレーソケットは、当時のオムロン製品の中でも、特に需要が大きく、その品質の高さが、オムロン太陽の信頼性を高めることにつながりました。
太陽の家は、様々な企業との連携を深めていきます。ソニー株式会社、本田技研工業株式会社、三菱商事株式会社、株式会社デンソーなど日本を代表する企業がオムロン太陽の理念に共感し、太陽の家に協力を申し出ました。
1984年、中村裕博士は愛知県蒲郡市に新たな施設を開設し、その直後に生涯を閉じました。彼の遺志は今も太陽の家、そしてオムロン太陽に受け継がれています。

多様なニーズに応える総合福祉施設へ

太陽の家は当初、中村裕博士が整形外科医であったこともあり、身体障がい者のための施設としてスタートしました。しかし、1990年代に入ると、知的障がいや重度障がい者も受け入れるようになり、その対象を広げていきます。
現在では、発達障がい、精神障がい者も同様に支援しており、多様なニーズに応える総合福祉施設へと発展を遂げています。
2000年代に入ると「地域で普通に暮らしたい」という、障がい者の願いがより強く表れるようになりました。
それまでは、安全、安心、効率という観点から、集団生活が一般的でしたが、小規模な単位で生活し、日中はそれぞれの活動場所へ通うという、より個別化された生活スタイルが求められるようになったのです。
太陽の家は、こうしたニーズに応えるため、地域生活支援事業をスタートさせます。相談支援事業や、就業・生活支援センターの開設など、地域で生活する方々へのサポート体制を強化しました。さらに2012年には、介護保険事業として特別養護老人ホームも開設し、現在に至ります。
太陽ミュージアム~No Charity, but a Chance!~見学レポート
太陽の家の敷地内に建設された太陽ミュージアムは、「学ぶ・体験する・感動する」の3つのコンセプトを掲げ、共生社会へのメッセージ発信だけでなく、地域社会との交流を促進する役割も担っています。
- 学ぶ
「日本のパラスポーツの父」と呼ばれる中村裕が唱えた“No Charity, but a Chance!” の精神を学べます。貴重な資料やアーカイブを閲覧出来ます。
- 体験する
障がいのある人の暮らしや、仕事をサポートする道具を体験できます。ボッチャの体験、バスケットボール用車いすの試乗も可能です。
- 感動する
太陽ミュージアムには「自分自身の可能性を見つけてもらい、だれもが自分らしく生きられる社会へ」という想いが込められています。真の共生社会の実現に向け、活動の輪を拡げることが大切です。
太陽ミュージアムには、太陽の家や各特例子会社にまつわる資料や製品、そして障がい者の生活を支える様々な福祉用具が展示されています。実際に体験するコーナーも多く設けられていました。
大戦中の車いすなど、歴史ある福祉用具の展示
第二次世界大戦中、箱根療養所で使用されていた「箱根式」と呼ばれる車いすや、中村裕博士が考案した「シートが上下する」タイプの油圧式車いすが展示されています。

ほかにも、アメリカで購入したとされる、車いすの人が使いやすい高さの印刷機など、貴重な資料が実物の器具と共に残されています。
治工具・自助具の体験
太陽ミュージアムの展示はどれもユニークなものですが、なかでも興味深かったのは、治工具・自助具の体験コーナーです。ここでは、障がい者の生活や仕事を支援するために開発された、様々な治工具・自助具が展示されています。

例えば、食事や料理をサポートする自助具が展示されています。底面に数cmのヘリがついた食器は、片手でも食事ができるように工夫されたもので、食べ物をこぼさずに口に運ぶことができます。
片手でキャベツを切ったり、バターを塗ったりしやすいよう工夫された「ピン付きのまな板」もありました。
ほかにも、就労継続支援B型作業所で使われる、結束バンドを半分に折るための治工具も展示されています。これは、結束バンドを半分に折る作業を簡単にするための道具で、細かい作業が苦手な方でも、正確に作業を行うことができます。
結束バンドを半分に折って、3回ひねる。簡単な作業ですが、障がいのある方にとっては難しい場合もあります。しかし、補助具を使えば「半分はどこだろう?」と悩む必要はありません。結束バンドを治工具の中央に合わせるだけで、誰でも簡単に、正確に半分に折ることができます。
実は、これらの治工具は、高齢者の方々にも大変便利だそうです。指先の力が弱くなった方や、細かい作業が苦手な方にとって、強い味方となります。
治工具や自助具は、まさに中村裕博士の言葉「足りないところは科学の力で」を具現化したものです。テクノロジーの力で、誰もが能力を発揮できる環境を創出する。太陽の家の理念が、小さな道具にも息づいています。
パラスポーツの歴史、体験

太陽の家では、障がい者が地域で安心して暮らせるよう、多岐にわたるサービスを提供していますが、特に注目すべきはパラスポーツ支援です。
「日本のパラスポーツの父」と呼ばれた中村裕博士の功績により、太陽の家は「日本のパラスポーツ発祥の地」として、スポーツを通じて障がい者の社会参加を積極的に後押ししています。

数多くのパラスポーツに関する資料が保存されており、その歴史を学ぶことができます。特に貴重なのは、過去の大会の写真記録です。
当時、写真記録班は、写真技術はあるものの、大会の意義や競技等に精通している訳ではありませんでした。撮影者が何の競技か判らないままに撮っているものが多く、編集物として必要な整理や記録がされていなかったのです。
撮影された人物がどこの誰なのか、優勝者の競技姿はどれなのかなど、1万枚あまりのネガから推測し、情報を整理しました。完成まで4人がかりで5か月を費やしたといいます。[1]

また、1964年に開催された東京パラリンピックでは、日本選手団にエビ茶色のおそろいのユニフォームが支給されましたが、役員への支給は一切ありませんでした。
そこで、中村裕博士は自前のジャケットの左胸に、日本国旗のエンブレムを貼って参加。選手のために尽力した中村裕博士のエピソードが、当時のジャケットと共に残されていました。

取材では、実際にパラスポーツを体験させていただきました。まずは、車いすバスケを体験。車いすの操作だけでも難しいのに、バスケットボールを同時に行うのは至難の業です。選手たちの高度な技術と体力を考えると、ただただ圧倒されます。

次に、ボッチャ体験に参加しました。ボッチャは、赤と青のボールをそれぞれ6球ずつ投げたり、転がしたり、他のボールに当てたりして、いかに白い目標球(ジャックボール)へ近づけるかを競うスポーツです。
ルールは簡単ながらも奥深く、チームで戦略を練り、目標球に近づけるための繊細なコントロールが求められます。体験会は大いに盛り上がり、参加者全員が笑顔に包まれました。
太陽ミュージアムが掲げるコンセプトにもあるように、大切なのは学び、体験し、そして感動したことを周りへと伝えていくことです。
ボッチャというパラスポーツは一部でしか普及しておらず、いまだ馴染みないスポーツかもしれません。
しかし、体験会を通して、その奥深さと楽しさを知り、身近なスポーツへと意識が変わる人が増えるでしょう。太陽ミュージアムでの感動が今後、パラスポーツへの関係人口が増えていくきっかけとなることを願います。
別府市のダイバーシティ
太陽ミュージアムには別府市の中心部を模したジオラマが展示されており、様々な取り組みが紹介されています。

例えば、車いすを利用する人が暮らしやすいように、タクシーの運転手が積極的にサポートしたり、飲食店が段差を解消したり、車椅子が入れるようにトイレを大きくしたり。小さなことかもしれませんが、街全体でバリアフリー化が進められています。


また、別府市には、立命館アジア太平洋大学(APU)があり、3000人を超える留学生が暮らしています。[2] そのため、街には様々な国籍の人々が溢れ、多様な文化が混ざり合っています。
障がいのある人ない人だけでなく、様々な国籍の人々も互いを尊重し、共に生活している。別府市を見ていると「なるほど、これがダイバーシティ(多様性)なのか」と、自然に理解できます。
別府の街を歩いていると、車いすに乗った人が、当たり前のように街を歩いていることに気づきます。カフェやレストランでは、留学生が様々な言語で会話を楽しんでいます。
誰もが、自分の個性を受け入れられ、安心して暮らすことができる。それが、別府市の魅力かもしれません。
D&Iを体現した街、別府
別府市は、温泉地として古くから様々な人々を受け入れてきた歴史があります。そして、太陽の家の存在も、別府市のダイバーシティを育む上で、大きな役割を果たしてきたと考えられるでしょう。
日本各地の自治体や行政の関係者が太陽ミュージアムを訪れ、多くの方が「別府は特別な場所だ」と感じられるそうです。
しかし、別府市は最初から「多様性のある街づくり」を目指していたわけではありません。太陽の家の方々は、内部コミュニティだけでなく、街に出て様々な活動を行い、地域住民との交流を深めてきたそうです。
その結果、別府市は障がい者を「受け入れる」だけでなく、共に尊重し、支え合う、寛容で温かい街へと成長を遂げました。
車いすに乗ったある方は「ここは誰も振り返らないから、住みやすい」と語っていました。別府市にとって、多様な人々が生きることは当たり前であり、その空気感こそが、真の共生社会を実現している現れです。
まさにダイバーシティ(多様性)を認め、インクルーシブ(包容的)な社会を体現した、誰もが安心して自分らしく暮らせる街と言えるでしょう。
別府市から飛び出していけるために
オムロン太陽の取り組みと、別府市のダイバーシティ。今回の取材を通して、学ぶべき多くの点がありました。
例えば、障がい者の能力を最大限に引き出すためには、バリアフリー化などの物理的な環境整備だけでなく、別府市のように互いを尊重し、受け入れるという心理的・文化的な土壌を育むことが大切です。
そのためには、コミュニケーション支援や研修制度の充実など、様々な取り組みが考えられるでしょう。小さく始められる例として、手話や英語などを共通の言語として学ぶための機会を、企業側が積極的に用意していくことが挙げられます。
2025年現在、太陽の家はウクライナからの避難民を2名受け入れていると聞きました。2名は聴覚障がいがあるそうですが、就労に向けての支援を行い、雇用の創出を実現させたそうです。誰にとっても働きやすい環境は、国境さえも障がいにならないことを明らかにしています。
これまで、安全・安心という観点から集団生活が一般的だった障がい者コミュニティは、太陽の家の尽力もあり、それぞれが活動場所を確保し、より個別化された生活スタイルを実現させています。
しかし、日本全体を見ても、このような取り組みはまだ別府市でしか行われていません。働く障がい者にとっては「別府」という集団から、いまだ抜け出せていない現状があるように感じられます。
それぞれの個性をもった人々が安心して暮らせる街づくりに欠かせないのは、別府市のような「インクルージョン」つまりは受け入れる体制なのかもしれません。
障がい者雇用に対する理解を深め、多様な人材を受け入れる体制を整え、まずは寛容な土台を作り上げる。そうすることで初めて、包括的な障がい者支援は別府市を飛び出し、さらに外へと拡がっていきます。そのためにも、太陽の家やオムロン太陽の取り組みから、多くのことを学んでいく必要があるのではないでしょうか。


参考文献
[1]日本パラスポーツ学会誌 30号(日本パラスポーツ学会)