「一生に一度はこんぴら参り」——そんな言葉で知られる香川県・琴平町。しかし今、この町は「一生に何度でも訪れたくなる町」へと、そのあり方を大きく変えようとしている。
背景にあるのは、人口減少や観光の変化といった時代の波だけではない。長い歴史の中で受け継がれてきた役目と、次の世代へどうバトンを渡すかという問いに、真正面から向き合う人たちの存在だ。
その中心にいるのが、金刀比羅宮の神事を支えてきた「五人百姓」の一人であり、飴屋を営む池龍太郎さんである。家業を継ぐという選択の裏側には、個人の決断を超えた、町とともに生きる覚悟があった。
琴平で続いてきた営みと挑戦から、これからの地域と観光のあり方を紐解いていく。
池龍太郎さん

香川県琴平町で、780年続く”幸せをおすそ分けする飴屋”の28代目。 “一生に一度はこんぴらさん”から、“何度でも訪れたくなる町”へ。 伝統を守り、語り部として町の魅力を伝えています。
琴平町の参道で生まれ育った28代目

─── 最初に、池さんがどのような環境で育ってきたのか、そして今どのようなことをされているのか教えていただけますか。
池さん:僕は香川県の琴平町で生まれました。金刀比羅宮の参道の69段目にある、店舗兼住宅の家です。
参道には多くの店が並び、朝になるとシャッターが開き、夜になると閉まる。そんな光景が日常でした。今では地域の課題として「顔の見える関係がなくなった」と言われることも多いですが、この町では少し違います。
隣の店のシャッターが開けば誰がいるのかすぐに分かります。近所の家の鍵を預かって「昼までシャッターが開かなかったら中を見ておいて」と頼まれるような関係が当たり前にある。そんなコミュニティの中で育ちました。
4歳のときに芽生えた「自分が守る」という感覚
─── 池さんは、いつ頃から家業を継ぐことを意識されていたんですか?
池さん:はっきり覚えているのは、4歳のときですね。
両親が長く不妊治療を続けていたこと、そして僕が奇跡的に授かったたった一人の子どもだということを、4歳のときに知りました。
それを聞いたとき、4歳の子どもながらに強く思ったんですよね。
「じゃあ、僕がこの家業を守らないといけないんだな」と。
自分がこの家に生まれてきた意味や使命のようなものを感じたのが、僕の中で一番最初に「継ぐ」ということを意識した瞬間だったと思います。
家業だけではなく、町の未来を考えていた子ども時代
池さん:琴平には長く続く家が本当にたくさんあります。同級生の家も、何百年続く靴屋さんだったり、200年以上続く旅館だったり。そういう家が当たり前にある町です。
ですが戦争が始まり、男性陣が戦地へ行き、女性が店を守るようになりました。戦後は女性が店を守り、男性が外で働く夫婦共働きが進んだことで、外に収入源ができ、店舗の改装などの変化が起きにくくなったとも聞いています。
その後、瀬戸大橋の開通により観光客も自然と増え、街の大きな変化が起きにくい時代が続いたとも言われています。
同級生の親世代も共働きが主流で、家業については「いつか継げばいい」という認識が広がっていました。なので僕は「将来は絶対琴平に帰る」と思っていたんですけど、同級生のなかには帰るつもりのない人も多かったんですよね。
もし自分だけ帰っても、同じ世代の仲間がいない町には未来がないんじゃないかと、そのとき思いました。
だから子どもの頃から、どうやったらこの町を好きになってもらえるんだろう、どうしたら同級生たちが誇りに思える町になるんだろう、とずっと考えていました。
次の世代が「この町で生きたい」と思える状態にしておかないと、家業のバトンだけ渡しても意味がないと感じていたんです。
なので、琴平の魅力をちゃんと伝えられるような町にしたい、という気持ちは子どもの頃からずっとありましたね。
780年以上続く「五人百姓」という役目

琴平には「五人百姓」と呼ばれる特別な役目がある。金刀比羅宮の神事を支えるために、代々この町に住み続けてきた五つの家で、現在も神事に関わるさまざまな役割を担っている。
池さん:五人百姓の「百姓」とは「百の役目を持つ人」という意味です。農家という意味ではなく、何でもできる人という意味ですね。
金刀比羅宮の神事を支える五つの家が、代々この町に住み続けてきました。そして現在も五人百姓の家々はすべて金刀比羅宮の参道周辺に住み、代々その役目を受け継いでいます。
─── 創業は1245年と聞きました。天皇からの手紙をいただいた年を創業としているそうですが、「五人百姓」自体は、もっと古い歴史があるのでしょうか。
池家に残る最も古い史料には、1245年10月24日、寛元3年の日付が入った天皇家から勅命をいただいたという記録がある。口伝では、五人百姓の役目自体はそれよりもさらに古い時代から存在していたともされているが、正確に歴史を遡ることは難しいため、五人百姓としては1245年をひとつの基準としている。
池さん:香川県の歴史書の『讃陽綱目』には、西暦701年10月10日、「神は五家の眷属(けんぞく)を引き連れてこの町へ来た」と書かれており、この五家の眷属が今の五人百姓だとされています。[1]
そこから数えると、今年で781年目です。だから僕らがはっきり誇れる歴史としては、780年以上続いていることになります。
紙一枚に託された「途絶えさせない役目」

池さん:僕の家には古い金庫がずっとあって、子どもの頃は「金銀財宝が入っているんじゃないか」と思っていました。
それを自分が20歳の成人式で県外から香川に帰ってきた際、祖父に開け方を教えてもらったら、まさかの紙が一枚しか入ってなくて。すごい大きい金庫なのに「え、これだけ?」って思いました。
その紙が、先祖からの引き継ぎ書なんです。祭りの日付と時刻、そして何をするかというのが、すごく古い紙に書かれています。
池家に代々受け継がれてきたその紙には、金刀比羅宮の神事の日程と内容が記されている。大きな耐火金庫に守られているのは、金銀財宝ではなく、神事を途絶えさせないための“約束”だった。

池さん:この引継書は「あまり空気に触れさせるな」と言われているので、僕は20歳のときに見てから一度も開けていません。次に開けるのは、自分の子どもが20歳になったときです。
実は池商店の飴屋という仕事は、金刀比羅宮が海を越えた四国にあることを広めるため、遠くへ持ち帰れるお土産として始まった仕事です。僕らが絶対にやらなければならないのは 神事のお手伝いを続けることです。
もし何かで家業の飴屋ができなくなったとしても、引継書だけは守らなければいけません。引継書さえ残っていれば、僕らは神事のお手伝いを続けることができ、何かあってもまたここから続けられるし、琴平の町も必ずここから続けられます。
28代目が受け取ったバトンの意味

─── 池さんにとって五人百姓とはどういうものなのでしょうか。
池さん:誇りでありながら途方もない年数で受け継がれてきたバトン、ですかね。
最近はとくに、これは他の地域にはない、本当に特殊なものなんだなと感じています。なので家業としてやこんぴらさんのためだけではなく、文化のようなものとしてしっかりと次の世代につなげたいと思っています。
でも「継げ」とは言いたくありません。僕も一度も言われたことがないので。だから「受け取りたい」と思えるようなバトンにして渡したいですね。
歴史の途中を「走らせてもらっている感覚」
─── 先ほど「バトン」という言葉が出てきましたが、池さんが受け継いできたバトンをもう少し具体的な言葉で表現するとどのようなものになりますか。
池さん:難しいですね。ただ、数え切れないほどのピンチや時代の変革を5人全員で乗り越えながら引き継がれてきたものなんだろうなとは思います。
長い歴史の中でこれまでにも多くの危機があったと思いますが、そういう数々のピンチとか時代の変化を、きっと五人で乗り越えてきたんだろうなと想像しています。
どの世代でも共通しているのは「継ぐ価値がある状態にして次に渡す」ということだと思います。
自分たちができる限り走って、息も絶え絶えの状態で「さあ、次はお前の番だ!自由に走れ」と次にバトンを渡してきた。そういうイメージです。
後継者という言葉は、しばしば「受け継ぐ人」として語られる。しかし池さんの感覚は少し違う。受け継ぐというより、長い歴史の途中を「走らせてもらっている」という感覚に近い。
池さん:思いや責任というより、僕は「走らせてくれてありがとう」という感覚に近いですね。
レールがずっと伸びていて後ろはもちろん途方もなく長いし、前もどこまで続いているかわからない。
ただ、その途方もないレールの途中を今たまたま自分が走っている。けれども、そのレールは先祖代々、架け続けてくれた加速装置で、それを使って存分に加速し「この先の道の先は自分が好きな方に走れ!」と言われている、そんな感覚があります。
町を守るために決断した店の改装

─── 池商店の事業では、龍太郎さんの代で100年ぶりの改装を行ったと聞きましたが、どのような思いで改装を行ったのでしょうか。
池さん:僕が改装を行ったきっかけはコロナ禍にあります。
すでにお話しましたが琴平の地域コミュニティはいい意味でとても近いんです。
それがコロナ禍によって、初めて全てのお店のシャッターが閉まっている状態になりました。普段はお店が開いているから何か異変があれば気づけるんですけど、全部閉まっていると本当に様子が分からない。
加えてこの町は高齢の方が多いので、余計に心配でした。
そして実際に、その時期に体調を崩された方もいらっしゃいました。家族葬だったので何も知らないまま葬式も終わっていて、本当にショックでした。
改装の本当の目的は「生存確認」
池さん:こうしたことがあって僕にしかできないことをやらないといけないと思い、想定よりかなり早く家業を継ぐことにしました。
そのときまず行ったのがお店の改装です。お店を直した大きな目的は、実はご近所さんの生存確認なんです。
改装を一種のイベントのような形にして「今日はこういうことをするよ」と、毎回ご近所に電話していました。するとシャッターが開いて、マスクをつけたおじいちゃんおばあちゃんが見に出てきてくれる。
別に手伝ってもらうわけではありません。ただ暇なので見に来てくれるだけです。それでも僕としては「生きてるな」「ちょっと痩せたな」と、様子が確認できて安心しました。
父からのバトンが託された瞬間

池さん:ただ工事を始めてみると想定以上に費用がかかってしまい、内心焦りを感じていました。
そのとき父から「お前これお金どうするんや」と聞かれて。銀行で借りるしかないかなと答えたら「俺の退職金使え」と言って、すべて託してくれました。自分がずっと働いて得た退職金をまるごとですよ。
しかも「社長はお前がやれ。お前がやらんと意味ないやろ。頑張れ」と言ってくれて。
そうした経緯で想定よりはずいぶん早く、代表を引き継ぐことになりました。
─── つまりお父さんからバトンが受け継がれた瞬間だったんですね。
池さん:本当に全部出してくれましたからね。父はおそらく自分の欲しいものは何も買ってないと思います。
今は売り上げの中から少しずつ返していますが、いつも「返さんでええ」って言われてます。
観光地・琴平町のこれから

─── 現在の琴平町の観光に関して、池さんが感じている課題はありますか。
池さん:観光地としてのエリアが小さい点はもったいないなと感じています。
金毘羅五街道という琴平につながる道が大きく分けて五つあります。[2] 昔はこの道を歩いて移動していたので、港から琴平まではすべて商店街のようなものでした。
ですが瀬戸大橋や鉄道ができ、車社会になっていく中で徐々に駅がこんぴらさんの周辺に集まってきたんです。結果として、観光地のエリアがとても小さくなってしまい、すごくもったいないなと思っています。
交通の発達は人の移動を便利にする一方で、本来は連続していた地域の広がりや文脈を分断してしまうこともある。観光地の「範囲」は自然に決まるものではなく、時代のインフラによって形づくられていることが見えてくる。
町を動かした出会い
池さん:商圏がどんどん小さくなり「本当はチームで走りたいが、まずはがむしゃらに一人でもやろう」と考えていたタイミングで、面白い出会いがありました。
それが琴平バスの代表である楠木泰二朗さんです。「実は階段の下で勉強会をやっているから来ませんか」と誘っていただいて、僕も参加するようになりました。
勉強会を通じてこれまで接点のなかった方とのつながりが生まれ、琴平の観光事業者が一丸となって走り始めることができたので、今の琴平の観光はかなり回復傾向にあると思います。
「一生に一度」ではなく「一生に何度でも」訪れたくなる町へ
池さん:琴平には「一生に一度は金毘羅参り」という言葉があります。[3]
もともとは「一生に一度は行かないともったいない」という意味でしたが、今の高校生に聞くと「一回行けばいいところ」というニュアンスで受け取られてしまっているようです。
そこで「これをひっくり返す言葉を作ろう」と、琴平のみんなで考えたのが
「一生に何度でも訪れたくなる町」
というフレーズです。
僕はこの言葉が大好きで。昔はみんな切磋琢磨し、それぞれ努力する意思が根強くありましたが今は違います。
「もう一度来たいと思えるか」「何度でも来たくなるか」それを考えてサービスをつくろう、という町に変わってきています。
言葉は単なる表現ではなく、人の行動や価値観を方向づける力を持つ。観光地のあり方もまた、どんな言葉で語られるかによって大きく変化する。
池龍太郎さんが未来に残したいもの —— 小さな観光大使

─── これからの時代に池さんが残したいものや、そのために取り組んでいることはありますか。
池さん:僕がたどり着いた答えは「小さな観光大使を増やすこと」です。
「関係人口を増やす」という言葉は地域振興でよく耳にしますが、僕はその言葉を少し冷たく感じます。ですが観光大使だと重すぎる。なので「小さな観光大使」にしました。
一つでも二つでも地域の魅力を知ってもらって、それを次の人に伝えてくれる人を増やしたいんです。
僕自身、大学で4年間関西に出ていましたが、自然に琴平に帰ろうと思えたのは、小さな観光大使として育ててもらったからだと思います。
町を訪れてくれた人にも、琴平の魅力を一つでも知って帰ってもらう。歴史は暗記科目ではなくて、先輩たちが今の僕たちに残してくれたヒントだと思っているので、それを伝えていく。
そうすると「琴平という町に行ってきたけど、実はこんなところがあってね」と話してくれる人が増えていきます。
僕自身が外で町の魅力を伝えることもできますが、本当に力があるのはその町と直接関係のない人が言ってくれた言葉だと思っています。
町を語れる子どもを育てる

池さん:あとは地元の子どもたちが誇りを持てるような町にするのも大切です。
香川の子どもたちが「香川には何もない」と言っているのを耳にすることがあります。でも、それは教えてこなかった側の責任でもあります。
なので「どこから来たの?」と聞かれたときに「琴平から来ました。こんぴらさんがある町です」と、一つでもいいから誇って伝えられるものがある町にしたいです。
外から来た人が語る琴平と、地元の子どもたちが語る琴平。その両方が重なり合うことで、町の価値は少しずつ広がっていく。
次の世代が「受け取りたい」と思えるバトンを

池さん:僕は五人百姓の飴屋として、地域を応援できる存在でありたいと思っています。ですが本当に大切なのは、僕一人が語ることではなくて、口伝です。
人口は減少しても、いろんな人が町のことを語り継いでくれる。その積み重ねさえあれば、次の世代が「この町で何かやりたい」と思える理由が生まれます。
自分の次の世代が継ぐときに「この町で何かやりたい」と思える状態にしておかないと、本当の意味でバトンを渡したことにはならない。
先祖たちもきっと同じことを考えていたんだろうなと感じています。
なので僕も、レールを少しでも継ぎ足して走り続けて、バトンを大きくして渡したい。
向こうから「受け取りたい」と言ってもらえるようなバトンにして、次の世代に渡したいと思っています。
参考文献
