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自然の可視化が、経営戦略になる。ネイチャーポジティブが拓く、企業と地域の新たな関係

2026 8/09
環境(水、森林、海洋、エネルギー資源)
ネイチャーポジティブ 取材 気候変動 生物多様性 社会 経済
2026-8-10
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「ネイチャーポジティブは、スローガンではない。」

2026年7月14日からの2日間、熊本城ホールで開催された「グローバル・ネイチャーポジティブ・サミット2026」。27の国と地域から2,700人以上が集まったその壇上で、Nature Positive Initiative代表のマルコ・ランベルティーニ氏は強く訴えた。

会場を埋め尽くした参加者のうち、実に3分の2を占めたのは企業や金融機関の関係者である。生物多様性は、もはや環境部門だけの閉じられたテーマではなく、明確な投資判断やリスク管理の対象として議論されるフェーズへ移行している。

ランベルティーニ氏はさらに踏み込み、ネイチャーポジティブの本質を提示した。それは、政府や一部の業界にとどまらず、企業から個人に至る社会全体が「より多くの自然に貢献する」という明確な目標に向かい、具体的な行動を起こすことにあるという。

しかし、ここで一つの疑問が生じる。「自然への貢献」という理念を、企業は実際の経営判断にどう組み込めばよいのだろうか。

人員も予算も限られる現場では、効果が可視化されない取り組みは、いつまでも抽象的な努力目標のまま形骸化してしまう。

抽象的な理念を、経営判断の軸へと昇華させる鍵、それこそが「測定」である。事業活動が自然に与える影響や、その回復度合いを数値化できて初めて、企業は予算配分や投資判断の具体的な対象として扱える。

この「測る」という行為を制度として支える枠組みが、TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)だ。

自社の事業活動が、自然資本に与える影響と依存度を「財務情報」として開示する共通基盤が整いつつある今、「測定」は一部の先進企業の自主的な取り組みを超え、投資家や取引先と対話するための「共通言語」となりつつある。

サミットの会場では、この共通言語を自社の経営判断や地域との協働にどう落とし込んでいるかについて、数多くの実践例が共有された。

本稿ではそれらの事例、とりわけサミットの開催地である熊本で進む先駆的な取り組みを手がかりに、「ネイチャーポジティブの本質とは何か」を深く掘り下げていく。

会場「熊本城ホール」が入居する複合施設 SAKURA MACHI Kumamoto
まちなかに豊かな緑が広がる

ネイチャーポジティブとは何か

ネイチャーポジティブとは、2030年までに生物多様性の損失に歯止めをかけ、2050年までに自然を回復軌道に乗せることを目指す、世界共通の目標である。

2022年に196の国と地域が合意した「昆明・モントリオール生物多様性枠組(GBF)」を土台としており、単に自然を「守る」にとどまらず、損失を上回る回復を実現し、差し引きの収支をプラスに転じさせる点を最大の特徴とする。

この目標を自社の事業に落とし込む場合、企業には以下の3段階のプロセスが求められる。

  1. 影響の把握:自社の事業活動が自然に与えている負荷を正確に把握する。
  2. 回避と軽減:その影響をできる限り回避し、抑制する。
  3. 保全と再生:削減しきれない影響について、自然の保全や再生を通じて補填する。

自社が環境に与えている負荷の大きさを把握しないまま、ただ植樹などの保全活動を進めても、それが事業の影響に見合った取り組みなのかを客観的に評価することはできない。

また、企業が負う「自然への影響」の内容は業種によって大きく異なる。例えば、大量の水を消費する半導体産業と、大規模な用地開発を伴う不動産業とでは、計測すべき指標も優先すべき対策もまったく異なる。

そのため、ネイチャーポジティブは一律のチェックリストを消化する作業ではなく、自社の事業構造を出発点とした「個別の戦略設計」を企業に要求する。

さらに、「保全や再生による補填」というプロセスの到達点は、自然への負荷をゼロにすることではない。経済活動を続ける以上、環境への負荷を完全にゼロへ抑え込むのは現実的に不可能だからである。

ネイチャーポジティブが目指すのは、回避・軽減・修復・再生という一連のプロセスを通じて、差し引きの収支を「プラス」に転じさせることである。

この発想があるからこそ、短期的には対立するように見える「地域経済の利益」と「自然環境の保全」を、長期的に共存・両立させる選択肢が生まれる。

課題は、この「ゼロではなくプラスを目指す」という理念を、いかに具体的な数値へ落とし込むかである。自然への負荷や貢献度を、売上やコストのように財務指標として決算書に反映させることは可能なのだろうか。

この難問に対する国際的な解答の一つが、TNFDという開示フレームワークである。

測定から、戦略へ。TNFDが開く自然資本の経営課題化

TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)とは、企業が自社事業と自然資本の「依存度」および「影響度」を、財務情報として開示するための国際的な枠組みである。

先行した気候変動版のTCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)に続くものであり、企業には、サプライチェーン全体を通じた自然へのリスクを、投資家へ客観的に説明できる形で可視化することが求められる。

この枠組みの本質は、従来の環境報告書のような「任意のCSR開示」ではなく、「投資判断の直接的な材料」として設計されている点にある。

自然への依存度が高く、その劣化リスクを把握していない企業は、投資家や金融機関から「過度な財務リスクを抱えている」と判断されるようになる。

つまり、「自然の保全」は単なる倫理的な配慮を超え、資金調達や株価を左右する経営そのものの課題へと変化したのだ。

ただし、TNFD自体はあくまで開示の「枠組み」を示したものに過ぎない。これを実際に機能させるには、「何をどう具体的に測るのか」という客観的な物差し(指標)が不可欠となる。

そこで、その指標として注目されるのが、Nature Positive Initiative(NPI)が開発を進める「自然の状態(State of Nature:SON)」である。SONは、以下の4軸で自然の状態を多角的に評価する。

  • 生態系の範囲
  • 生態系の状態
  • 種の絶滅リスク
  • 種の個体数

主観的な「自然への配慮」にとどまらず、これら4つの軸に沿って現状や変化を定量化(数値化)することで、企業同士を比較できる「共通言語」が生まれる。

この可視化への要求を後押ししている大きな要因が、金融・保険業界が直面する切実な危機感だ。

自然資本の劣化や気候変動にともなう自然災害(台風や水害など)の激甚化によって、保険金の支払額は急速に膨らんでおり、保険事業そのものの存続すら脅かされつつある。

金融機関にとって、自然のリスクはもはや将来の懸念ではなく、現実に損益を圧迫する喫緊の課題だ。だからこそ、投融資先のリスクをTNFDなどの統一基準によって正確に把握しようとする動きが加速している。

保険業界からの登壇者が語った「自然は、測れなければ『懸念』だが、測れれば『戦略』になる」という言葉が示す通り、可視化されて初めて、自然資本は経営戦略の具体的なテーマになる。

世界一の地下水都市、熊本の挑戦

熊本市を含む熊本県内の11市町村は、上水道の水源を100%地下水で賄っている。人口約100万人規模の都市圏がこれを実現している例は、世界的にも極めて珍しい。

この貴重な水資源は、阿蘇山系に降り注いだ雨が、長い歳月をかけて地中に浸透し、育まれたものだ。熊本県では20〜30年前から、休耕田に水を張る「水田湛水(たんすい)」や保水力の高い森林整備など、地下水を育むための地道な取り組みを重ねてきた。

この持続的な均衡に大きな変化をもたらしたのが、2024年の出来事である。熊本県内へ、半導体製造大手の巨大工場が進出したのだ。

半導体生産には莫大な量の水が必要となるため、新たな取水が地域の水需給バランスを崩しかねないという懸念が一気に広がった。

もともと熊本県では、2012年に全面施行された「熊本県地下水保全条例」に基づき、大規模な取水を行う事業者に対して、地下水の涵養(かんよう)などを求める枠組みが存在していた。

しかし、半導体関連企業の進出による需要の急増を受け、県は運用ルールや指針を幅広く見直し、自社が採水する量以上の地下水を自ら涵養するよう、実質的に求める姿勢を一段と強化した。

ただし、既存の制度や運用の強化だけで問題が根本解決するわけではない。いくら事業者に対して涵養を強く求めたとしても、都市化の進展や土地利用の変化に伴い、水が地中に染み込む土地そのものが減り続けているからだ。

要求される涵養量を物理的に担保するための、新たな「受け皿」が不可欠となる。そこで、2025年2月に始動したのが、「熊本ウォーターポジティブ・アクション」である。

この取り組みでは、工場・公共施設・民間住宅などの敷地に、雨水を一時的に貯留して地下へ緩やかに浸透させる、植栽空間「雨庭(あめにわ)」の整備を推進している。

1箇所あたりの涵養量は小さくとも、企業・自治体・個人が一体となって参画することで、地域全体の涵養能力を「面」として積み上げていく設計だ。

例えば、清水建設の熊本営業所などで取り組まれている「雨庭」のモデルケースのように、身近な敷地を活用した具体的な実践が広がりつつある。

清水建設によるAMENIWAプロジェクトの概要

半導体工場の進出は、雇用創出や税収増といった多大な経済的恩恵をもたらす一方で、共有資源である地下水に、新たな負荷をかける側面を併せ持つ。

条例による義務化は負荷を可視化し、相応の責任を企業に求める仕組みに過ぎず、涵養能力の低下という「構造的な問題」を直接解決するものではない。

熊本ウォーターポジティブ・アクションは、経済と環境の間の緊張関係を解消した到達点ではなく、むしろその緊張感を前提としながら、工場・自治体・住民がそれぞれの持ち場で実行可能な解を模索し続ける挑戦と言える。

他にも、自然資本がもたらす「負荷」と「恩恵」をめぐる課題は、脱炭素とネイチャーポジティブという、ともに「持続可能な地球環境を取り戻す」という目的を共有しているはずの二つの目標の間にも、深く横たわっている。

例えば、日本自然保護協会が示したデータによると、国内で稼働する陸上風力発電所のうち、実に51%が周辺の自然植生に、82%が猛禽類に悪影響を及ぼしているという。

気候変動対策としての再生可能エネルギー推進が、別の局面では、生態系へ直接的な負荷を与えてしまうこともある。

地球温暖化を防ぐ「脱炭素」と、自然を守り育てる「ネイチャーポジティブ」は、常にセットで成り立つとは限らない。現場ごとに「どちらかを立てれば、どちらかが犠牲になる関係(トレードオフ)」がないかを、丁寧に検証していく必要があるのだ。

では、そうした地域や環境ごとの検証と意思決定は、誰の声を優先して進めるべきなのだろうか。

サミットに参加した海外の識者からは、土地に根ざした先住民族や地域コミュニティが主導権を握ることの重要性が強く主張された。

自然環境の変化は、そこで長年暮らしてきた人々の生活や文化そのものに直結する。もし都市部の企業や投資家が、外部の都合だけで開発や保全の方針を決めてしまえば、地域で自然と生きてきた当事者の声は置き去りにされてしまう。

生活用水や農業用水として使われている自噴水

熊本の地下水をめぐるルールづくりや涵養(かんよう)活動が実を結んでいる背景には、行政・企業・住民といった当事者が、同じ地域の中で長年議論と実践を積み重ねてきた確かな地盤がある。

この協働の基盤は、一朝一夕に築けるものではない。そこに暮らす人々が、自らの生活と切っても切れない「大切な恵み」として自然を愛おしみ、育んできた歳月の蓄積こそが、確かな土台となっているのだ。

さらに言えば、こうした構図は熊本の地下水だけに限った話ではない。自然の力を地域経済の仕組みに組み込もうとするとき、あらゆる地域で同じ本質的な問いが突きつけられる。

自然資本から生じる「負荷」と「恩恵」を誰がどのように分かち合うのか。そして、その当事者たちをどうやって長期的に地域社会へと結びつけていくのか、という問いである。

終わりに

筆者自身、この2日間の取材を通じて考えていたのは、豊かな自然を観光資源にもつ地域にとって、ネイチャーポジティブは「自然の恵みを稼ぐ力に変える」ための有効な戦略になり得るのではないか、ということだ。

いまや、自然資本への関わりや、そのリスクをきちんと測定できる企業に、資金が集まる仕組みができつつある。それと同じように、豊かな自然を守り、その状態を適切に測定・開示できる「地域」もまた、投資や資金の新しい受け皿になれるはずだ。

実際にサミットの会場でも、地域が生み出す生物多様性の回復量を「クレジット」として形にし、企業からの資金を地域へ巡らせる仕組みについて議論が交わされていた。

自然を活かして観光を営む地域にとって、この構造は欠かせない視点だ。訪れる人からの収益だけに頼るのではなく、自らの自然資本の状態を測定・開示し、金融や企業からの資金を引き寄せられるかどうか。それこそが、単なる「集客力」とは別の、地域がもつもう一つの”稼ぐ力”の可能性である。

観光を手段として金融を巻き込み、地域そのものが再生していく。その先に、そこに暮らす人々の営みが持続していくという「リジェネラティブツーリズム」が目指す未来は、熊本で行われたネイチャーポジティブの議論と確かに重なっているように思えた。

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