画像提供:石見銀山 群言堂
島根県大田市にある世界遺産・石見銀山。戦国から江戸時代にかけて日本最大の銀山として栄え、最盛期には世界で産出される銀のうち、約3分の1を占めたとも伝えられている。
世界遺産の登録名である「石見銀山遺跡とその文化的景観」が示す通り、評価されたのは「林業による経済価値」だけでなく、「自然との共存」や「文化的景観」も揃ったこと。環境を壊さず、数百年にわたって育まれた産業遺跡として、世界的にも特別な価値を認められたのだ。

そんな環境と調和する精神は、麓にある大森町の暮らしにも脈々と息づいている。人口わずか380人の小さな町でありながら、受け継がれてきた伝統的な町並みと人々の営みが、今も美しい景色をつくり出している。
この町を歩いていると、ただ史跡や町並みを眺めるだけでは終わらない。玄関先に生けられた季節の花、すれ違う人との何気ない挨拶。そうした日常の営みに、旅する側もふと心を寄せられる。
そんな大森町で、半世紀近くにわたり「暮らし」を事業の軸に据えてきた会社が、石見銀山群言堂グループ(以下、群言堂)だ。

この町の古民家を拠点に、衣服や生活道具を手がけるほか、飲食店や宿の運営も行う。単に商品を売るのではなく、大森町の生き方そのものを届けてきた、いわば「暮らしの提案者」である。
今回は、群言堂で代表を務める松場 忠さんに話を伺った。世界遺産登録、そして過度な観光地化(オーバーツーリズム)という波を経て、なぜこの町は「暮らしを中心におく」という境地にたどり着いたのか。これまでの歩みと、そこに込められた想いを辿っていく。

株式会社石見銀山群言堂グループ 代表取締役 松場 忠さん
1984年佐賀県鹿島市生まれ。文化服装学院シューズデザイン科卒業後、シューズメーカーで靴職人として勤務。その後、骨董屋で店番をしながら、靴の企画の仕事を一人で始める。その後、妻の両親が経営していた株式会社石見銀山生活文化研究所(群言堂)に入社。飲食店の立ち上げ、広報、新ブランド設立などを担当し、2019年、地域観光に特化した株式会社石見銀山生活観光研究所を設立。2022年、株式会社石見銀山群言堂グループ代表取締役に就任。2024年、行政と連携した地域経営をテーマに株式会社石見銀山地域経営研究所を設立。
「暮らしの継続」という価値
石見銀山が世界遺産に登録されたのは2007年のこと。実はこの登録、一度は諮問機関であるイコモス(ICOMOS)より「世界的な普遍的価値の証明が不十分」として登録延期の通知を出されている。しかし、その後の再審査で評価が覆り、登録に至ったという経緯を持つ、世界的にも珍しいケースだ。
評価を覆した背景にあったのが、地球温暖化問題への関心が高まる時勢を捉え、「自然との共生」にアピールの重点を絞った日本政府代表部の動きだった。多くの鉱山開発とは異なり、石見銀山では森林破壊が最小限に抑えられ、周囲の森林や景観がほぼそのまま残されている。

この背景について、松場さんは「大森町に人々の暮らしがあり続けたことこそが、結果的に森を管理し、文化的景観を維持することにつながった」と話す。
「森と共に営んできた暮らし」の価値が評価され、世界遺産登録に至ったという出来事は、大森町にとって「自分たちの暮らしが中心にある」ということを、住民自身が改めて知るきっかけになった。
しかし、世界遺産への登録は、大森町の穏やかな日常を一変させることになった。登録直後、町にはこれまで経験のない数の観光客が、一気に押し寄せることになる。当時はまだ「オーバーツーリズム」という言葉すらなかった時代だ。
それまでは、散歩に出れば顔なじみの住民たちと立ち話ができるような、ごく穏やかな日常があった。しかし登録後は一転、家の戸を開ければ見知らぬ大勢の人々が行き交い、自分の暮らす家が、まるでテーマパークの展示物であるかのように扱われる。子どもたちも、かつてのように外で無邪気に遊ぶことが難しくなっていった。

多くの来訪者から世界遺産登録を祝福される誇らしさの裏で、住民たちは、日々の暮らしが脅かされる過酷さを身をもって感じるようになる。
もっとも、登録そのものが悪かったわけではない。問題の本質は、訪れる人の「数」だけを成果指標とする、従来の観光モデルにあった。
大人数の受け入れを競うようなあり方は、その土地に暮らす人々の生活を、ゆっくりと蝕んでいく。大森町が直面したのは、まさにこの構造的な課題だった。
では、大森町はこの課題にどう向き合ったのか。町が選んだのは観光客を締め出すことでも、大型施設で受け入れることでもなかった。それは「歩く町」へと舵を切るという、本質的な転換だった。
玄関先にそっと生けられた花や、暮らしの細部に宿る住民の小さな創意工夫。歩くスピードだからこそ、そうしたささやかな光景に気づき、心を動かされる旅行者が増えていきました。

車で目的地へ駆けつけるような観光では、地域の住民による暮らしの育みを感じ取ることは難しい。歩く時間があるからこそ気づけるささやかな光景に、感度の高い旅行者ほど深く心を動かされるのだ。
訪れる観光客の「数」を追うことをやめ、ゆったりと歩く時間の中で町と向き合ってもらう。それはオーバーツーリズムという痛みの中で見出した、大森町の答えだった。

また、大森町が直面していたのは、オーバーツーリズムの課題だけではない。人口減少が進む中で「この町の自治や暮らしそのものが、この先どうなっていくのか」という、さらに本質的な問いだった。
きっかけの一つは、「2040年問題」だ。人口減少により、全国の自治体の約半数が経営難や財政破綻に陥りかねないと指摘した、日本創成会議(座長:増田寛也氏)が発表したいわゆる「増田レポート」を受け、松場さんは強い危機感を抱いたという。
実際、島根県は消滅可能性都市の比率が、全国でも高い水準にあると報告されている。
今ある街並みやコミュニティは、住民や企業がそれぞれ力を注いできた成果であると同時に、行政の力に支えられてきた部分も大きいです。中山間地域では、インフラの維持すら今後どうなるか分かりません。
それでも、大森町がこの先も残っていくためには何ができるのか。子どもたちが20代、30代になる頃には、自分自身も50代、60代になっている。その具体的な未来が、はっきりと目の前に浮かびました。
だとすれば、自分たちの地域で何とかしていくしかない。石見銀山・大森町で言えば、観光の町であるからこそ、観光による収益が、街並みの維持や地域運営、コミュニティの維持・再生に還元される仕組みが必要だ。
オーバーツーリズムには、暮らしの穏やかさを損なう一方で、経済的な潤いをもたらす側面も確かにあった。だからこそ町では、その両者のバランスをめぐる議論が重ねられてきた。
「一時的な賑わいがずっと続くのか」という疑問もありましたし、そもそも世界遺産は、経済対策のためのものではないはずです。人類の宝として残していく責任があり、その価値を交流を通じて、次世代へ継承していくためのもの。
世界遺産になったこと自体は誇りに思いますが、維持していくためには経済が必要です。だからこそ「観光」という手段は使うけれど、観光そのものを「目的」にはしない。あくまで、暮らしを中心にしていく。そうした議論が当時からなされてきました。

自らを「ライフスタイルブランド」と位置づける群言堂では、大森町の暮らしを体感できる生活観光事業の「石見銀山生活観光研究所」や、行政・他企業と連携して地域課題に取り組むまちづくり事業「石見銀山地域経営研究所」など、町の活性化に関わる取り組みも展開。雇用の創出はもちろんのこと、新たな人の循環を生み出している。

また、「ライフスタイルブランド」には、単に衣服や生活道具を製造・販売する会社ではなく、生き方や暮らし方そのものを提案する存在でありたいという意志が、その呼び方には込められている。
例えば、製造小売という業態は、物を通して価値を伝えるのが基本だ。しかし現代において、単純な機能や品質だけで勝負するなら、格安で高品質な衣料品を提供する大企業には敵わない。
それでも群言堂の服が選ばれるのは、服の背景にある「大森町での暮らしや美学」そのものに強い信頼が寄せられているからだ。大企業のような、潤沢な広告宣伝費はない。だが群言堂は、そのリソースを「町の魅力づくり」へと注ぎ込んできた。
大森町まで足を運んだ人が、町の風土や人の営みを肌で体感する。そのとき、群言堂自身は前面に出るのではなく、いわば「黒子」として機能する。町という舞台があり、そこでの暮らしという体験があり、群言堂はその背後で、静かにその体験を支える役回りに徹する。
「暮らしを中心に置く」という大森町の理念は、こうして企業のブランド戦略とも重なり合っている。町があるから群言堂という会社が成立し、群言堂という会社があるから、町の暮らしを支える経済も回っていく。
2007年に制定された大森町住民憲章には、「おだやかさと賑わいを両立」という一文がある。一見すると相反するこの二つの言葉だが、ちょうどいいバランスを探り続けることこそ、大森町が今も考え続けていることなのだという。

移住者と紡ぐ、程よい距離感のコミュニティ
「暮らしを中心にしていく」という意思決定は、掛け声だけでは根付かない。それを支えてきたのが、大森町に集う人々のネットワークだ。
大森町では現在、「石見銀山みらいコンソーシアム」という地域共同体が中心となり、防災や教育、観光など多岐にわたる課題に取り組んでいる。坑道遺跡「龍源寺間歩」の指定管理も担い、年間約8万人が訪れる観光収益を、町の維持や地域活動の原資として還元する仕組みも整えてきた。


面白いのは、このコンソーシアムメンバーの半数をIターン者が占めている点だ。大森町の暮らしやあり方に惹かれ、「ここでなら新しい挑戦ができるかもしれない」という希望を感じ取った人々が集まっている。
その共感を深める場として、5年ほど前から毎月欠かさず続けられているのが「勉強会」だ。内容は国の政策動向から近況報告まで、様々である。
参加人数が多い日もあれば、少ない日もある。それでも、毎月欠かさず様々な事例に触れることで、参加者それぞれが持ち込む話題によって視野が広がり、現場で今何が起きているかを知ることにもつながっていく。
こうした関わりを通じて、かつて世話になった移住者が、次にやってくる人の面倒を見るという温かい好循環が生まれていった。
大森町の人間関係は、近すぎず離れすぎない「心地よい距離感」にあるという。コンパクトな町だからこそ、一歩外に出れば誰かと出会い、ごく自然に挨拶が交わされる。
興味深いのは、大森町がもともと「都会」だったという視点だ。松場さんによると、銀が発見された当時、この地には何万人もの人が暮らしていたとも言われ、密集した住宅街としての性格を持っていた。
都市部から移住してくる人にとっても、この町の距離感が案外なじみやすいのは、そうした背景があるからなのかもしれない。

かつて大森町では、園児数の減少により保育園への助成が打ち切られ、閉園寸前という瀬戸際に立たされていた。園児がわずか2人という時期もあり、その危うさは相当なものだったという。
この窮地を救ったのが、町に根を張る人々の支え合いだった。長年、大森町で事業を営み、古民家再生にも取り組んできた義肢装具メーカー、中村ブレイス株式会社が運営費を捻出し、地域住民からの寄付も集まった。

群言堂も、プロジェクトTシャツの売上を寄付するなどして支援に加わり、企業と住民が一体となって厳しい時期をしのいだという。その後、子育て世代の移住が増えたことでベビーラッシュが起き、一時は26人にまで園児数が回復した。
ところが現在、大森町は再びピークアウトを迎えており、園児数は再び減少している。移住者を受け入れられる住居が不足し、移住家族の受け入れができなくなってしまったからだ。だからこそ今、「次の一手をどう打つべきか、模索が続いている」と、松場さんは語る。
ハレではなく、ケの「生活観光」
大森町が現在かたちにしているのが、「生活観光」という考え方だ。松場さんらが取り組んでいるのは、一泊や日帰りではなく、中長期の滞在を前提とした市場づくりであり、それを「生活観光市場」と呼んでいるという。

松場さんたちが目指すのは、日帰りや短時間の観光ではなく、中長期の滞在を前提とした市場づくり。ここで意識的に避けているのが、いわゆる「ラグジュアリー型」の高付加価値な観光である。高付加価値型の競争は、結局のところ資本力の戦いになってしまう。
だからこそ、大森町が選んだのは別の土俵だった。資本の対象とされてこなかった中山間地域の、豊かな暮らしや景観そのものにスポットライトを当てる。観光を非日常の「ハレ」としてではなく、ありふれた日常である「ケ」の提案として捉え直す発想だ。

生活観光の概念は、1970年代、大分県の由布院温泉で旅館経営者たちによって掲げられた背景がある。
当時、多くの温泉地が歓楽街的な発展を志向する中、由布院はあえてその流れに与せず、「生活そのものが素晴らしい」という価値観を観光の核に据えるという道を選んだ。
由布院の知名度が上がり、多くの人々が訪れるようになった現在、押し寄せる国際観光の波をうまく制御し、自分たちの生活リズムへと調和させるための実践が続いている。
豊かな暮らしがあり、その魅力を旅人に味わってもらう。そんな「ケの観光」を具体化した取り組みが、行政と連携した「遊ぶ広報」だ。2週間の滞在補助(7万円)を支給し、滞在者には町の広報役を担ってもらう。

案内する側の姿勢にも、大森町らしさが表れている。一般的な観光ガイドのように、由緒や歴史を説明するだけの案内ではない。むしろ「一緒に町で遊ぶ」「友達を紹介する」という感覚に近い。旅人にとっては、肌感覚の話もあることで歴史がより身近に感じられる。。

相手の興味に合わせて時間をコーディネートし、共に過ごす。地域住民が一人、仲介役として間に入るだけで、旅人は「誰々さんと一緒に来た人」として、町への入り方がまったく違ったものになるのだという。
案内する住民自身も、自らの暮らしの愛おしさに気づかされていく。自分たちにとっては見慣れた日常が、外から来た人の目には、かけがえのない光景として映っているのだ。

こうして生まれた繋がりや事業収益は、確実に地域へと還元されている。「遊ぶ広報」や生活観光といった事業も収益に貢献しているが、その原資として大きいのは、石見銀山みらいコンソーシアムが担う指定管理事業による収入だ。
これらの収益は、移住者やコンソーシアムメンバーの活動を支える運営費となり、具体的な行動へとつながっていく。
自主防災組織の活動や、河川の整備などはその一例だ。事務局にわずかな予算があるだけで、倒木の撤去といった、住民レベルでできる作業は数多くある。そうした地道な積み重ねが、河川の氾濫リスクを下げるといった、暮らしの安全にも還元されているのだ。
移住者が増え、町が少しずつ変化していく中でも、景観や町並みは、歴史的アイデンティティとして大切に受け継がれていく。
一方で、そこでどのような暮らしをするかは、時代に合わせて柔軟に変えていく必要がある。その変化の必要性を最も実感させるのが、近年の気候変動だ。

昔はお盆を過ぎれば肌寒いくらいだったのが、今は9月に入っても暑さが続きます。エアコンも必要ですし、古い家ゆえの断熱の弱さも、改修で補う必要があります。「昔のものが素晴らしいからそれだけを守る」では、今を生きている実感が持てません。
自分たちが今を生き、未来の人に「この暮らしを遺したい」と思ってもらえるような暮らし方ができるかどうか。それが大切だと思っています。”
「古いから」という理由だけで守ろうとするのは、ある種の思考停止かもしれない。景観を守ることと、暮らしをアップデートすることは決して矛盾しない。
未来の誰かが「この暮らしを残したい」と憧れるような景色を、今を生きる自分たちの日常の延長線上につくっていく。そんな暮らしの再生こそが、大森町の持続可能性を支える本当の力なのだ。

大森町が歩んできた道のりを一言で表すなら、それは「暮らすことを、もう一度大切に考え直す」という営みだったのかもしれない。
観光とは、見られることでもある。「暮らしを見世物にしているのではないか」という問いは、この町にも投げかけられてきた。
しかし大森町が目指してきたのは、見せるための観光ではない。大切なのは、「見られてもいい丁寧な暮らし」を重ねることだ。
お客さんを迎えるために家を掃き清めるように、外との開かれた関係性を築くことは、暮らしを整え、ひいては町の美しさを守ることに繋がっていく。人口減少や税収減によって「当たり前」の維持が難しくなる時代、その隙間を埋めて、暮らしを守る手段こそが「生活観光」とも言える。
地域全員が、ビジネスに強い興味を持つ必要はありません。「日々穏やかに、安心して暮らせること」が一番大切であり、それを支えるために経済というエネルギーが必要なのです。
花を生ける、庭先を掃除する、町並みを美しく保つ。そうしたささやかな日常を守る人たちがいて、僕らのような事業者が存在する。その絶妙なバランスこそが、持続可能な地域を作るのだと思っています。
「観光」という言葉には、「国の光を見る」という語源がある。私たちはつい、「光」という響きに、目立つ観光資源や華やかな体験を重ねてしまう。
しかし、大森町で目にする「光」とは、もっと静かで愛おしい。観光とは本来、その土地の暮らしの中に灯る静かな光を、旅人がそっと見せてもらう体験だったはずだ。
大森町が歩んできた挑戦の歴史は、私たちに観光の原点と、これからの豊かさのあり方を静かに教えてくれている。
取材協力:石見銀山 群言堂
