2026年7月、熊本県熊本市で「グローバル・ネイチャーポジティブ・サミット2026」が開催された。会場となった熊本市は、生活用水のほぼすべてを地下水でまかなう「水の都」である。
阿蘇の山々が育んだ雨水は、長い年月をかけて豊かな地下水となり、熊本の街と人々の暮らしを潤し続けている。このように熊本の繁栄は、阿蘇の森林や草原が涵養(かんよう)する地下水という、まさに「自然の恵み」そのものに支えられてきた。
今回のサミットが熊本で開催された背景には、こうした自然と共生する地域のあり方を世界に示すという狙いもあったといえる。

熊本の事例が示すように、自然は本来、地域や企業の営みを土台から支えるインフラである。しかし、そうした認識が社会全体に広がったのはごく最近のことだ。自然保護というと、2020年代前半までは「CSR(社会貢献)」や「気候変動対策」の一環と見なされがちだった。
しかし現在、自然資本の回復、いわゆる「ネイチャーポジティブ」は、企業の財務状況を左右する「財務的マテリアリティ」へと変化した。いまや自然保護は、企業や地域の持続可能性を支える中核的な戦略として捉えられている。
本レポートでは、その象徴的な事例として、日本航空(JAL)と王子ホールディングスの取り組みを取り上げる。
両社に共通するのは、自然を「守るべきコスト」としてではなく、「新たな価値を生み出す資本」として経営の中心に据えている点だ。
航空業界の視点「自然は、旅の需要を生む資本である」
IEA(国際エネルギー機関)のデータによれば、2023年の航空全体によるCO2排出量は世界の約2.5%を占め、国際航空だけでも約545MtCO2(全体の約1.5%)に達する。排出ガス問題の深刻化に伴い、航空業界にとって環境戦略を経営の中核に据える必要性は、かつてないほど高まっている。[1]
こうした状況下で、「もしCO2排出量を削減しなければ、航空業界そのものが生き残れなくなる」と指摘するのは、日本航空(JAL)代表取締役副社長執行役員であり、グループCFOを務める斎藤祐二氏だ。

気候変動対策は、言わば「マイナスの影響をゼロに近づける」取り組みです。一方で、自然資本への向き合い方は、新しい価値を生み出す「ポジティブな投資」という側面を持っていると考えています。
従来の観光業において、豊かな海や山は「当たり前に存在する背景」として、いわば無償で利用されてきた。しかしJALグループでは、これらを「需要を生み出すための大切な資本」として捉え直している。

何より、旅の目的地となる地域の「美しい景観」や「固有の生態系」こそが、顧客が航空券を購入する最大の動機、すなわち「商品価値」の源泉である。
“ 美しいサンゴ礁や豊かな里山があるからこそ、人はそこを訪れたいと願い、移動が生まれます。つまり、自然が壊れることは、航空業にとって商品そのものが失われることに等しいのです。”
JALグループは現在、この「自然資本の回復」を旅の体験に組み込む新たな試みとして、「旅と学びの地域体験プログラム」である「旅アカデミー」を開始している。

本プログラムは、地域で豊かな生き方を実践する人々を講師に招く「オンライン座学」と、現地での刺激やつながりを得る「現地プログラム」で構成される。目指すのは、沖縄のサンゴ礁再生や北海道のタンチョウ保護など、旅行者自身が保全活動に関与できるモデルの構築だ。
これは単なる環境負荷の相殺にとどまらず、自然の回復がさらなる旅の魅力を創出する「リジェネラティブ(再生型)な循環」を生み出す挑戦でもある。
具体的な一環として、JALパックでは「タンチョウの保護と共生」をテーマにした体験型学習ツアーを提供している。

国の特別天然記念物であり、JALのシンボルでもあるタンチョウは、翼を広げると240cmに達する日本最大級の鳥類で、日本で繁殖する唯一の野生ツルである。
本ツアーは、絶滅の危機を乗り越えてきたタンチョウの歴史を学び、その保護のバトンを、次の100年へつなぐことを目指して企画された。
参加者は事前のオンライン座学で基礎知識を得たうえで、北海道の鶴居村や釧路湿原を訪問する。現地では専門ガイド同行のもと、保護活動の体験や自然観察を行うほか、地域関係者との対話を通じて野生動物とのより良い関係性について考察を深める。

また、斎藤氏は壇上で、脱炭素や資源循環、ジェンダーバランスといった多様な課題に対し、単に個別対応するのではなく、互いに相乗効果(シナジー)を生み出すアプローチの重要性を指摘した。
その具体的な取り組みの一つが、2024年に参画した「森空プロジェクト」である。これは東北の森林資源を活用して、バイオエタノールや持続可能な航空燃料(SAF)を製造・活用する取り組みだ。政府が掲げる「2030年までに航空燃料の10%をSAFにする」といった目標の達成に向け、取り組みを進めている。

国土の多くを占める日本の森林資源を活かした「地産地消の森林循環」は、放置された森林の整備や林業の活性化、さらには東日本大震災からの東北復興支援という多面的な価値をもたらす。
森林の適切な間伐・保全を進めながら、その資源を脱炭素化に還元する。「JALグループはこれからも、ネットゼロとネイチャーポジティブの双方を包括的に推進していく」と、斎藤氏は力強く宣言した。
森の価値を「企業の資産」として正しく評価する
社友林として国内最大級の森林を管理しているのが、総合製紙メーカーの王子ホールディングスだ。同社の代表取締役社長執行役員である磯野 裕之氏の発言は、持続可能な発展や地域の資源管理を担う自治体、DMO、そして投資家にとっても大きな示唆を与えるものとなった。

王子ホールディングスは渋沢栄一により設立されて以来、150年にわたって「木を使う者は、木を植える責任がある」という考えを守り続けてきた。同社が国内外に展開する社有林「王子の森」の総面積は、約63.5万ha。これは東京都の約3倍という膨大な広さに相当する。
しかし磯野氏は、「これほど広大な森を維持し、豊かな地下水を育んできた価値が、現在の市場メカニズムでは適切にバリュエーション(企業価値評価)されていない」という、経済システムの構造的課題を指摘した。
この課題を解決するため、王子ホールディングスが国内で先駆的に取り組んでいるのが「森の価値見える化プロジェクト」である。これは、所有する森林が持つ多面的な機能を科学的に測定・評価し、その価値を資産として計上しようとする試みだ。

これまで「ボランティア」や「CSR活動」と見なされてきた森林保全が、企業の「資産価値」として算出されるようになれば、豊かな自然を維持している地域や企業は、高い信用力を持つ存在として世界中の投資資金を呼び込むことが可能になる。
さらに、王子ホールディングスの挑戦がユニークなのは、森の価値を「紙の原料」だけに留まらず、最先端テクノロジーの基盤へと拡張している点にある。その象徴が、木材繊維から生み出される高付加価値製品だ。

例えば、王子ホールディングスが開発を進める「半導体向けフォトレジスト」も、森林資源を活用した事例の一つである。同社は紙・パルプ事業の知見を活かし、木質バイオマスが持つ「光で分解しやすい」という化学的特質に着目した。

現在、半導体業界では製造時に使われる有害化学物質「PFAS」の規制強化が、世界的な課題となっている。これに対し、もともと光への感度が高い木質バイオマスを用いることで、PFASを使わずとも(Non-PFAS)、高い製造安定性を保つことに成功した。環境面と技術面を高い次元で両立させた、次世代の材料開発として注目されている。

王子ホールディングスの取り組みは、「木を切り、紙を売る」というこれまでの単一的なモデルからの脱却である。森林という自然資本から多様な価値を紡ぎ出し、新たな循環を生む「リジェネラティブ(再生型)な製造業」への転換を意味している。
「自然の価値を、言葉(評価)に変える」という同社の取り組みは、まさに地域の「目に見えない財産」を経済の原動力へと変換する、次世代の地域経営のモデルケースと言えるだろう。

自然という資産を、どう捉え直すか
サミットの締めくくりとして、モデレーターのバカーニ氏は「エージェンシー(主体性)」という言葉を参加者に贈った。
環境の変化という不確実な時代において、唯一確実な対策は、私たち自身の「主体的な行動」です。世界が変わるのは、物事が順調な時ではなく、困難の中で、誰かが一歩を踏み出した時なのです。
今回のサミットが示したのは、自然資本の回復を「コスト」ではなく「未来への投資」と捉え直し、金融、保険、事業会社、そして地域がそれぞれの役割を連動させることで、経済システムそのものをより豊かな形へ書き換えられる、という希望であった。
観光業は、他のどの産業にも増して、自然という資本の上に成り立ってきた。美しい景観、豊かな海、固有の生態系。これらは長らく「当たり前に存在する背景」として扱われ、その価値が正面から問われることは少なかったように思われる。
しかし本レポートで見てきたように、自然はもはや守るだけの対象ではなく、事業の持続可能性そのものを左右する経営基盤である。
「主体性」とは、壮大な方針転換ではなく、足元の一歩から始まるのかもしれない。目の前にある自然を「当たり前の背景」として消費し続けるのか、それとも「最大の資産」として捉え直し、保全と利活用の具体策を一つずつ積み重ねていくのか。
答えが出揃うのを待つのではなく、今その一歩を踏み出すことこそが、これからの観光業に求められる姿勢だと言えるだろう。
参考文献
