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TNFDで辿る、阿蘇の流域。半導体ブームの熊本で、「豊かな水の流れ」を歩く。

2026 9/03
環境(水、森林、海洋、エネルギー資源)
ネイチャーポジティブ 取材 流域 熊本 生物多様性 草原 阿蘇
2026-9-4
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毎日何気なく口にする、コップ一杯の水。その水が一体どこから来ているのか、考えたことはあるだろうか。

実は「世界一の地下水都市」と呼ばれる熊本では、熊本市を含む11市町村で、水道水のすべてを天然の地下水で賄っている。人口100万人規模の都市でこれを達成している地域は、世界を探しても他に類を見ない。

阿蘇山の火砕流堆積物が、100m以上も積み重なった大地。その足元には、水を通しやすい多孔質の地層と、無数の亀裂が入った溶岩層が広がっている。

この独特な地質が、まるで巨大なスポンジのような役割を果たし、降り注ぐ雨や農業用水を地中へとたっぷりと吸い込んでいく。

この大自然の営みに、人間の歴史が重なり合う。約420年前、加藤清正が堰(せき)と用水路を築いて開拓した、白川中流域の水田だ。

地元の人々から「ざる田」と親しまれるこの水田は、その名の通り、通常の5〜10倍という驚くほどの早さで水を地下へと浸透させていく。

大自然が作り上げた「多孔質の地層」と、先人たちが知恵を絞って切り拓いた「ざる田」。この二つが見事に結びつくことで、熊本の大地には尽きることのない、豊かな地下水が蓄えられてきた。

長きにわたり、市民の暮らしを潤してきたこの美しい水は、現在、その安定した水質と豊かな水量によって、新たな産業を育む希望の水としても大きな注目を集めている。

2024年、熊本の地に世界最大手の半導体メーカー・TSMCの工場(運営子会社JASM)が本格稼働を開始した。

この巨大産業の進出は、地域に大きな経済効果や雇用をもたらす「希望」でもある一方、長年守り継がれてきた「地下水」という地域の共有財産に、新たな負荷をかけるという側面も併せ持っている。

「経済的な発展」と「貴重な資源の保全」。私たちは、この相反するようにも見える二つの現実に、どのように向き合っていけばよいのだろうか。

近年、こうした複雑な問いに対し、客観的な指標を用いて向き合おうとする動きが世界中で広がっている。代表的な取り組みが「TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)」だ。

これは、企業が自然環境にどの程度依存し、またどのような影響を与えているのかを特定し、それらを「事業上のリスクと機会」として捉え、開示するための国際的な枠組みである。

TNFDは、「LEAP(リープ)アプローチ」と呼ばれる分析手法を採用している。「発見(Locate)」「評価(Evaluate)」「分析(Assess)」「準備(Prepare)」という4つのステップを踏むことで、土地が抱える複雑な現実を、多角的な視点で読み解くことができる。

今回、リジェネ旅 編集部はこのLEAPの視点を持って、熊本の大地を歩いた。半導体工場が密集する菊陽町を出発し、水が豊かに地表へ湧き出す阿蘇市へ。そして、その命の水が生まれる広大な阿蘇の草原へと、水の流れを遡るように辿っていく。

鼻ぐり井手公園・白川中流域

旅の出発点は、菊陽町にある「鼻ぐり井手公園」だ。白川の岸に沿って深く刻まれた細い水路跡へと足を踏み入れていくと、しぶきを上げる水音が急に間近に迫ってきた。

今も滔々と流れるこの水路は、慶長13年(1608年)ごろに加藤清正が築いたとされる「馬場楠井手(ばばくすいで)」である。井手とは、人工的に作られた水路のことで、田畑に水を供給するとともに、井戸や水道が弾かれるまでは生活用水としても利用されてきた。

馬場楠井手は、氾濫しがちな白川に堰を設け、そこから熊本市の大江渡鹿(おおえとろく)まで約12kmにもわたって水を引いた、壮大な灌漑(かんがい)施設だ。

当時、この水路によって9つの村、およそ95ヘクタールもの農地が潤い、米の収穫高は一気に3倍へと跳ね上がったと言い伝えられている。

しかし、豊かな恵みをもたらす白川には、一つだけ厄介な性質があった。上流から阿蘇の火山灰、地元で「ヨナ」と呼ばれる細かい砂を、大量に運んでくるのだ。そのまま放っておけば、せっかく掘った水路もたちまちヨナで埋もれ、使い物にならなくなってしまう。

この難題を克服するために、先人たちが生み出した奇策。それこそが、「鼻ぐり」と呼ばれる独特な構造だったのである。

水路となる岩盤を掘り進める際、あえて全てを削り取らず、屏風のように岩の隔壁を残していく。その間隔はおよそ2〜5メートル、厚さは約1メートル、高さは約4メートルにも及ぶ。そして、その巨大な壁の最下部に、直径約2メートルの半円形の穴をくり抜く。

この構造が、牛の鼻輪を通す穴(もしくは鼻輪本体)に似ているところから、「鼻ぐり」と名付けられた。

水は、この狭い穴を通り抜けるたびに、勢いを増して噴流となる。それが激しい渦を起こし、底に沈殿しようとする火山灰の泥を巻き上げては、次から次へ、下流の槽へと押し流していくのだ。

ひんやりとした水路跡に立ち、岩壁に規則正しく連なる穴を眺めていると、400年という途方もない時間の流れが重なり合う。先人たちの知恵や地域への想いとは、こうして次の世代へと流れ込み、この大地に静かに堆積していくものなのだろう。

2018年、この精巧な水路群は「白川流域かんがい用水群」として世界かんがい施設遺産に登録された。

馬場楠井手を抜けた水が届く先、白川中流域に広がる田園地帯こそが、熊本の豊かな地下水を語るうえで欠かせない「核心部」である。

LEAPにおける「Assess(評価・分析)」とは、自然への依存や影響を踏まえ、そこから生じる事業上のリスクや機会を特定・評価することだ。自然環境が持つ機能や、地域の土地利用が自然に与える影響を理解することは、そのリスクや機会を適切に評価するための土台となる。

そして、この土地ならではの性質を、さらに意図的な仕組みへと昇華させたのが、2004年から熊本市などが取り組む「白川中流域水田湛水(たんすい)事業」だ。

これは、大豆や麦などを育てる転作田に、農作業の合間を縫って水を張ってもらい、その浸透分を地下水として蓄えていく取り組みである。

この仕組みは、農家に負担を強いるだけのものではない。田んぼに水を張ることで、病害虫駆除や地力の維持・増進ができるという、農家側にとっても大きなメリットがあるのだ。

菊陽町、くまもとセミコンテクノパーク

同じ菊陽町の中を、車で北へと向かうと、のどかな畑が続く道を抜けた先で、景色が変わる。ここには「くまもとセミコンテクノパーク」と呼ばれる、日本屈指の半導体関連企業の工業団地がある。

JASM(TSMCのグループ会社)やソニーセミコンダクタマニュファクチャリング、東京エレクトロン九州など、世界的な先端企業や、それらを支える国内トップクラスの半導体関連企業が集結している。

熊本県、とりわけ菊陽町が半導体製造の拠点として選ばれるのは、阿蘇の恵みである「豊富で良質な地下水」の存在が大きい。

半導体は、シリコンの板(ウェーハ)に微細な電子回路を、何層も重ねて作られる。「焼く」「削る」「不純物を添加する」といった工程を数百回にもわたって繰り返すが、各工程の直後には、表面の薬液や微小なごみを完全に洗い流さなければならない。

チップ1枚が完成するまでに数万リットル、工場全体では毎日数万トン規模の水が消費されるため、安定して水を補給できる巨大な水源が絶対条件となる。

画像出典:アイオン株式会社

さらに、水は洗浄だけでなく「冷却」にも欠かせない。半導体工場は24時間365日、巨大な精密機械を動かし続けている。機械が発する凄まじい熱を冷ますための冷却水としても、大量の水が使われている。

膨大な水の量だけでなく、もう一つ重要なポイントとなるのが「水質の高さ」だ。現代の半導体回路は、ナノメートル(100万分の1ミリ)単位で設計されているため、洗浄には不純物を極限まで取り除いた「超純水」が使われる。水中にわずかなミネラルが残っているだけでも回路がショートし、不良品の原因となってしまうのだ。

阿蘇の火山灰層を何十年もかけて浸透してきた熊本の地下水は、地中の天然フィルターによって磨き上げられており、濁りや有機物が極めて少ないという特徴がある。

原水がクリーンであるほど、超純水へと精製する際の処理コストを大幅に抑えつつ、効率よく大量に作り出すことができる。

このように、水量・水質の両面で豊かな熊本の地下水は、AIの社会実装を支える最先端の半導体産業にとって、重要な基盤となっている。

しかしながら、事業が自然に与えるインパクトを評価(Assess)する視点に立つと、毎日数万トン規模に及ぶ水消費は、地域の共有財産に負荷をかける大きな潜在リスクでもある。

このリスクの規模を定量的に把握するプロセスがあるからこそ、企業は次に講じるべき具体的な保全措置へと踏み出すことができるのだ。

熊本県は、2012年に全面施行した「地下水保全条例」に基づき、一定規模以上の地下水を汲み上げる事業者に対し、地下水採取の許可申請時に「地下水涵養(かんよう)計画」の作成と知事への提出を義務付けている。さらに、計画に基づく涵養活動の実施と、その状況を毎年報告することも求めている。

計画を立て、実行し、報告する。この流れは、LEAPアプローチの最終ステップ「Prepare(準備)」の構造とそのまま重なる。

TNFDにおけるPrepareとは、単に対策を打つことではない。分析で見えたリスクと機会に対し、どう対応するかを戦略と目標に落とし込み、進捗を測る指標を定め、その結果を外部に開示する。

半導体製造というビジネスに引き寄せれば、対応にあたるのが休耕田への水張りや雨庭(レインガーデン)の整備支援といった涵養策であり、指標が涵養量のトン数、そして開示がサステナビリティレポートやコーポレートサイトということになる。

実際、TSMCは年次報告書のなかで、熊本のJASMが2025年までに800万立方メートルの地下水涵養を達成したと公表している。

画像出典:2025 TSMC Annual Report

しかし、ここで意識しなければならない重要な視点がある。それは、この800万トンという水は、工場の施設そのものが生み出したわけではないということだ。

涵養活動の大部分は、工場の強固なフェンスの外側、すなわち中流域に広がる水田や、古くから地域の人々が守り続けてきた土地で行われている。最先端の半導体産業を支える水資源は、地域社会の伝統的な農畜産業基盤に大きく依存しているのである。

最先端産業が、そうした地域の営みの上に成り立っている一方で、半導体関連企業の進出は、地域社会に複雑な「波紋」も広げている。巨額の経済効果や新規雇用といったプラスの面ばかりが注目されがちだが、現地では切実な声も耳にした。

たとえば、地域産業やNPO・NGOに関わってきた人たちは、「時給が高い半導体関連企業に働き手が集中することで、周辺の既存企業に人が集まりにくくなり、地域の人手不足がかえって加速している」と指摘する。

数千人規模の巨大な雇用が生まれることは、必ずしも地域社会全体の「余力」が増えることを意味しない。むしろ、地域の環境や文化を守ってきた人々の負担を増大させ、ひいては水資源の土台となる地域基盤そのものを揺るがしかねないというジレンマを抱えているのだ。

手野の名水、役犬原の自噴水

菊陽町を離れ、今度は白川を遡るようにして阿蘇市へと向かった。まず訪ねたのは、阿蘇北外輪山(きたがいりんざん)の麓にある手野(ての)の名水。溶結凝灰岩の割れ目から、静かに清らかな水が流れ出ている。

驚いたのは、水を汲みに来ている人の多さである。話を聞くと、わざわざ熊本市内から車で通っているという。ポリタンクを両手に提げ、慣れた手つきで順番を待つ人々の姿を見ていると、この場所が単なる観光地ではなく、日々の暮らしの延長線上にあることが感じられた。

次に向かった「役犬原(やくいんばる)の自噴水」では、阿蘇カルデラのど真ん中、扇状地の境目にあたるその場所で、地下水が地面から勢いよく噴き上がっている。その水に手を差し入れてみると、冷たく、やわらかい。

役犬原の地域では、古くからこの水が、生活の隅々にまで溶け込んできた。そのまま飲み水を汲み、採れたての野菜を洗い、広大な田畑を潤す。勢いよく噴き上がる水を中心に、人々の暮らしの営みがそのまま組み立てられてきたのだ。

こうした、ポンプで汲み上げなくとも、地下の圧力によって自ら勢いよく噴き出す井戸のことを「自噴井(じふんせい)」と呼ぶ。

その仕組みは、実にダイナミックだ。阿蘇の山々に降った雨が、時間をかけて地下へ染み込み、上下を水を通さない硬い地層に挟まれた「帯水層」の中を、ゆっくりと流れ下っていく。

上下をぴったりと塞がれた水は、上流との高低差が生み出す重みによって、徐々に圧力を溜め込んでいく。この状態の地下水を「被圧地下水」といい、地表との間にわずかな隙間や通路が生まれると、その逃げ場のない圧力に押されて、水は自ら噴き上がるのである。

しかし今、この自噴井は、全国的にその数を急激に減らしている。

地下水の過剰な汲み上げ、気候変動による雨の降り方の変化、そしてアスファルトやコンクリートに覆われ、雨が地下へ染み込まなくなった現代の大地。水が自らの力で空へと湧き上がるという、かつては当たり前だったこの神秘的な現象は、いまや失われつつある貴重な「自然の遺産」になりかけている。

LEAPの「Evaluate(診断)」では、事業や暮らしが自然の恵み(生態系サービス)にどれほど「依存」しているかを可視化する。

絶え間なく湧き出る水を「生活用水」として汲み交わす日常の風景は、熊本の社会が地下水という自然資本なしには成り立たないことを、肌で実感させてくれる。

火を入れることで、水が生まれる

この旅の最後に、阿蘇市と高森町を結ぶ「箱石峠」の展望所へと向かった。

車から降り、しばらく坂道を登って展望台へと向かった。たどり着いたその場所で、ふと視界が開けた瞬間、思わず息を呑んだ。

目の前に広がるのは、あたり一面をを埋め尽くす、もふもふとした緑の草原。やわらかな草の絨毯がどこまでもつづき、やさしい風が通り抜けるたび、草たちは音もなく波を打つ。

そして、目の前に広がる草原こそが、熊本の命を潤す「水が生まれる場所」である。

阿蘇の年間降水量は約3,000mm前後と、日本全国の平均の約1.7倍を誇る。降り注いだ雨は透水性の高い火山灰土壌にしみ込み、やがて湧水となり、川へと姿を変える。

阿蘇を源流とする一級河川は、筑後川・菊池川・白川・緑川・大野川の5本。九州各地の流域に暮らす人々が、日常的に飲んだり使ったりする水は、その多くがこの緑の斜面から始まっているのだ。

これはLEAPアプローチの起点である「Locate(発見)」のフェーズそのものだ。箱石峠からの広大なエリアを見渡すことで、遠く離れた都市や工場で使う水が、一体どこから流れてきているのかという「地理的なつながり」を明確に特定(Locate)することができる。

山々をじっと見渡していると、同じ緑でも、濃度の異なる「境界線」があることに気づく。一方は、丈の低い草が、なめらかな斜面を縁取るように続いている。もう一方は、点々と低木が生い茂り、もこもこと輪郭が乱れた斜面だ。

写真の手前は、今も毎年「野焼き」が行われている草原。奥の方は火が入らなくなり、ゆっくりと森林へと戻りつつある場所だ。

私たちが目にする阿蘇の草原は、手つかずの原生自然などではない。放牧、採草、そして野焼きという農的な営みが、千年近くにわたって途切れることなく積み重なることで、かろうじて維持されてきた「半自然」である。

火を入れなければ、草の隙間に木々が根を張り始め、ほんの数十年で、広大な草原はうっそうとした森へと姿を変えてしまうのだ。

そして、こうした緩衝機能を持つ草原は、いまや日本の国土の1%以下にまで激減している。日本の国土の約67%を森林が占めているという現実を思えば、その希少さは際立っている。

こうした危機的状況のなかで、阿蘇の草原保全の最前線を担っているのが、1995年に設立された公益財団法人 阿蘇グリーンストックだ。

行政、地域、ボランティア、そして企業をつなぐ「官民四者連携」のハブとして機能し、現在は50社を超える企業が保全活動に参画している。

だが、現場で実際に草原を維持・管理しているのは、阿蘇に約160ある「牧野組合」の人々だ。過酷な野焼きも、その前段としての防火帯をつくるのも、すべてこの組合の人々が担ってきた。

しかし、高齢化の波は容赦なく押し寄せ、もはや地域の人手だけでこの広大な草原を維持することは、限界を迎えている。

その危機を支えているのが、全国から集まる野焼き支援のボランティアだ。2022年時点で約900名だった登録者数は、現在では約1,500名にまで増えているという。

野焼きは、一歩間違えば命に関わる危険と隣り合わせの、途方もない重労働だ。しかも作業の許される時期は、わずか2月から3月の数週間に限られる。経済的な合理性や効率だけを優先させれば、野焼きの活動は中断する理由に満ちているかもしれない。

それでも毎年、人々は山に入り、自らの手で火をつける。この半自然の風景を千年もの間支えてきたのは、「この草原を守りたい」という地域の人々の純粋な想いだ。

TNFD(LEAPアプローチ)が示すように、企業活動はフェンスの内側だけで完結するものではなく、広大な流域の自然資本と地域社会に強く依存している。

どれほど高度な精製技術や節水システムを備えても、源流である阿蘇の循環が途切れれば、事業の持続可能性そのものが揺らぎかねない。

だからこそ今、企業に求められているのは、単なるCSR(社会貢献)にとどまらず、「流域のパートナー」として地域の課題に共に向き合うことではないだろうか。

自然資本を支える「川上」の環境までを、自社の事業とつながるものとして捉え、そこに潜むリスクに対して具体的な行動を起こす企業が、これからどれだけ増えていくのか。21世紀の企業には、自然環境との関係を捉える視点と、それに基づいて行動する力が問われている。

熊本でいえば、半導体関連企業が、地下水の涵養にもつながる草原保全などの取り組みに、どのように関わり、行動を起こしていくのか。今後の動きに注目したい。

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