観光を「量から質へ」と転換するには、何が必要なのか。2026年4月、タイ・プーケットで開催されたグローバル・サステナブル・ツーリズム協議会(GSTC)のグローバル・サステナブル・ツーリズム・カンファレンスでは、クロージングパネルでこの問いが真正面から議論された。
テーマは「スロートラベル(ゆっくり滞在型の旅)」と「セカンダリーデスティネーション(第2の観光地)」。世界各地の事例をもとに、観光のあり方を問い直す本質的な議論が展開された。
スロートラベルとは何か、「速さ」への問い直し

クロージングパネルの冒頭では、モデレーターを務めたGSTC会長のルイジ・カブリーニ(Luigi Cabrini)氏が、スロートラベルの本質を整理した。スロートラベルとは、単に「ゆっくり旅をすること」ではない。滞在期間を長く取り、徒歩や自転車など環境負荷の低い移動手段を選び、混雑していない地域でその土地の文化や食、コミュニティと深く関わる旅のあり方を指す。その思想は、食の背景や地域性を重視する「スローフード運動」とも通じている。
観光地にとってのメリットも大きい。滞在日数が延びることで、1日あたりの移動距離が短くなり、結果としてフライトに伴うCO2排出量の相対的な削減につながる。また、水や電力といったインフラへの負荷も分散され、地域への過度な集中を防ぐことができる。さらに、観光収益が地域内により広く還流しやすくなる点も重要だ。一方、訪問者にとっては、有名観光地を巡るだけの「チェックリスト型の旅」では得られない、深い文化的な没入や地域とのつながりを感じられる体験となる。
こうした旅のスタイルは、近年の社会的な変化によってさらに後押しされている。「どこでも働ける(Work from anywhere)」という働き方の広がりが長期滞在を可能にし、本物の体験への志向や、喧騒から離れた静けさを求めるニーズも高まっている。これを受け、宿泊施設側も長期滞在向けのプラン開発や、地元の食材・工芸品の活用、環境負荷の低い移動手段の整備などを進めることで、新たな市場機会を取り込むことが求められている。
タイ観光庁(TAT)の戦略 「癒しが新たな贅沢」

Tourism Authority of Thailand(TAT、タイ国政府観光庁)の国際マーケティングを担うチラワディー・クンサブ(Chiravadee Khunsab)氏の発言は、スロートラベルを単なる「トレンド」ではなく、「構造的な課題への解決策」として位置づけている点で示唆に富んでいた。
TATが捉えているのは、旅行者行動の明確な変化である。従来の「短期間で多くの場所を巡る旅」から、「一つの場所に深く関わる意味のある体験」へとシフトが進んでいる。実際、タイを訪れる旅行者の60%以上がリピーターであり、新たなデスティネーションや体験を求める傾向が強い。これは、スロートラベルを支える自然な需要基盤となっている。
TATがこの戦略を採用する理由は、需要への対応だけではない。主要都市の混雑を緩和するという「課題解決」と、旅行者ニーズの変化という「機会創出」を同時に実現するためである。
具体的な戦略は大きく三つに整理される。第一に「デザインされた旅程」。単一拠点から周辺地域へと回遊を促し、地方コミュニティへの訪問を誘導する。第二に「スローモビリティ」。鉄道や地域交通を活用し、「どこへ行くか」だけでなく「どう移動するか」そのものに価値を見出す。第三に「体験の深度」。コミュニティベースドツーリズムやガストロノミー、ウェルネス、自然体験などを通じて、地域との深い関わりを生み出す。
この方向性を象徴するのが、「癒しが新たな贅沢(Healing is the New Luxury)」というキャンペーンコンセプトだ。大量消費型から持続可能型へと移行する観光のパラダイムシフトを端的に表している。
一方で、スロートラベルの展開が容易ではない現実も指摘された。タイには55のセカンダリーシティが指定されているが、すべてが十分な受け入れ体制を備えているわけではない。「コネクティビティと受け入れ環境の整備が最優先」という認識は、現場に根ざした課題意識を示している。
例えば、Isan(イサーン)地方は、これまでアクセスの難しさから誘客が難しい地域とされてきた。しかし近年、その状況は大きく変わりつつある。ラオスやカンボジアと国境を接し、ムーン川流域に広がる自然豊かなこの地域には、先史時代の壁画が残るPha Taem National Parkや、美しい仏塔で知られるWat Nong Bua、幻想的な“光る寺院”として注目されるWat Sirindhorn Wararamなど、観光資源は多様だ。
これらを擁するウボンラーチャターニー(Ubon Ratchathani)や、古代クメール遺跡のPhanom Rung Historical Parkで知られ、サッカークラブBuriram United FCの本拠地でもあるブリーラム(Buriram)への航空路線が拡充され、アクセス性が向上している。
こうした動きを背景に、TATは、バンコクのような主要都市と地方のハブ都市を組み合わせ、周辺地域へと観光客を広げていく「ハブ&スポーク」型の戦略を推進している。
また、世界遺産でも有名なアユタヤ(Ayutthaya)とスコータイ(Sukhothai)を結ぶ鉄道の旅は、都市と歴史的観光地をつなぎながら、周辺コミュニティにも経済効果を波及させる好例として紹介された。これは、主要拠点を起点に価値ある体験へと誘導する「ハブ&フック」戦略の具体的な実践といえる。
Agodaのデータが示すセカンダリーデスティネーションの台頭

オンライン旅行(OTA)大手のAgodaでアジア地域を統括する副社長、Krishna Rathi氏は、自社データをもとに、スロートラベルとセカンダリーデスティネーションの関係について分析を行った。
Agodaは39言語でサービスを展開し、約20年にわたる運営実績を持つ。その膨大なデータが、ここ1〜2年で顕著な変化を捉えている。これまで主要都市に比べてアクセスの制約があった「セカンダリーデスティネーション(第2の観光地)」が、主要デスティネーションを上回るペースで成長し、さらには国全体の平均成長率も超えるようになったという。この傾向は、日本、インド、タイ、韓国、インドネシアといった主要観光市場で共通して確認されている。
こうした需要の背景には、二つの異なる訪問者層が存在する。ひとつは新しい体験を求める新規顧客、もうひとつは訪れ慣れた国や地域で新たな発見を求めるリピーターである。特にセカンダリーデスティネーションへの旅行は、繁忙期を避けたミッドシーズンに多く見られ、より深い文化体験をもたらすとともに、再訪意欲の向上にもつながっている。
この知見をもとに、AgodaはTATと連携し、「Grand Discovery Thailand」キャンペーンを展開。良好な成果を上げたことから、現在ではアジア各国の政府から同様の連携打診が相次ぎ、この1年で十数件の協議が進んでいるという。需要の高まりは供給側にも変化をもたらしており、近年の新規ホテル開発の多くがセカンダリーシティで進行している。Agodaも、プーケットやバリ島のヴィラ、韓国のモーテルなど、これまでローカル中心だった宿泊施設を国際旅行者向けに紹介する取り組みを強化している。
同時に、責任ある観光への取り組みも進めている。GSTCやWorld Wide Fund for Natureとのパートナーシップのもと、ホテルパートナーが自然保全プロジェクトに寄付できる仕組みを構築。これまでに約290万ドル(今年は150万ドルを見込む)を調達している。また、「Sustainable Tourism Academy」を通じて3,000人以上の観光業従事者を育成し、中小企業向けのグロースキャピタルファンドでは10万ドル規模の環境投資も実行している。
クリシュナ氏は最後にこう強調した。「スロートラベルは、アジアの次の成長フェーズにおける重要な柱になる。しかし同時に、過度なマーケティングによって小規模なデスティネーションを傷つけないよう、慎重にマネジメントしていく必要がある」
島国バハマの実践 「ファミリーアイランド」が体現するスロートラベル

アメリカ合衆国のフロリダ半島からカリブ海にかけてのエリア(西インド諸島の北西部)に位置する島国・バハマの観光・投資・航空省に所属するポール・ストラカン(Paul Strachan)氏が紹介したのは、スロートラベルが“制度として実装されている”島嶼国家の現実だった。
700以上の島々から成るバハマでは、観光地として開発されているのはわずか16島に限られる。ナッソーやパラダイスアイランドの大型リゾート、グランドバハマの中規模施設、そして「ファミリーアイランド」と呼ばれる離島群という三層構造の中で、スロートラベルはもともと離島に根づいてきた旅のスタイルだ。
離島では、地元産品やサービスの利用比率が高く、観光収益が地域内で循環しやすい。また観光客の分散は、ナッソーへの人口集中や“見えにくい観光負荷”の軽減にもつながる。欧州や英国からの長距離旅行者は長期滞在する傾向があり、一人あたりの消費単価が高い点も特徴である。
一方で、課題も少なくない。20か所の国際空港を維持するコストの高さ、離島から都市部へ流出する若年の技術人材の不足、さらに人材確保のために他地域から人を呼び込むことで住宅不足が生じるといった構造的な問題がある。これらは、スロートラベルを推進しようとする多くの地域に共通する課題でもある。
こうした状況に対し、バハマは三つの柱で対応している。第一は「コミュニティの準備とエンゲージメント」。住民の合意と主体的な関与を重視し、GSTCと連携したデスティネーション・スチュワードシップ・カウンシルや、54の中小事業者を束ねたアンドロス・クラスター・プロジェクトなどが進められている。
第二は「訪問者エンゲージメント」。50年以上続く「ピープル・トゥ・ピープル」プログラムでは、旅行者と地元住民を関心に応じてマッチングし、時には食卓を囲むほどの交流を生み出している。さらに、サンゴ礁の再生を行うリーフ・レスキュー・ネットワークや、マングローブ再生活動などを通じて、訪問者自身が保全の担い手となる仕組みも整えられている。
第三は「需要の創出」。ファミリーアイランドを紹介する広告キャンペーンに加え、住民による民泊開業を支援する助成制度や、ナッソーと離島間の移動を無料化する「フライ・フリー/クルーズ・フリー」プログラムなどが展開されている。
離島の受け入れ規模は、あくまでコミュニティと既存インフラの許容量に基づいて決定される。空港は存在するものの拡張計画はなく、ナッソーとは対照的に、ファミリーアイランドは小規模で静かな環境を維持すること自体が戦略とされている。新規開発の規模を制限する規制も、その意思を裏付ける重要な仕組みとなっている。
「スロートラベルはマーケティングの問題ではない」

この日の議論の中で、本質的な示唆を残したのは、Coraggio Groupのコンサルタントであるアンドリュー リアリー(Andrew Leary)氏の発言だった。
「スロートラベルが広がらない理由は、多くの場合、需要の不足ではない。問題はインフラとガバナンスにある」この一言が、会場の空気を変えた。
リアリー氏は、旅行者として欧州の小さな漁村を巡るシーカヤックツアーに参加した経験をもとに語る。北米やオーストラリアから訪れるゲストは、地元の宿に滞在し、家族経営の食堂で食事を楽しみ、何度も同じ場所に戻ってくる。その理由を尋ねると、答えは決まって「人とのつながり」だという。
しかし、このような体験が成立していた背景には、「見えないインフラ」の存在があった。例えば、カヤックを積んで山道を移動できるレンタカーサービス、スムーズに予約できる宿泊システム、地域の魅力を伝えるストーリーの蓄積などである。こうした基盤があってこそ、旅の質は支えられていた。「どれだけ魅力的なマーケティングを行っても、受け入れ体制が整っていない地域に旅行者を誘導すれば、かえって負荷を生む」という指摘は、日本の観光地が直面する課題とも重なる。
リアリー氏は、スロートラベルを実装するためのアプローチとして三つのステップを提案する。第一に「準備状況の診断」により、地域の現状を正確に把握すること。第二に「自治体による支援」として、第二の観光地として発展するために必要な財政や人材の不足を補うこと。そして第三に「指標の転換」である。単なる訪問者数ではなく、観光収益がどれだけ地域内に残るかを評価軸に据えるべきだという考え方だ。
この「指標の転換」は、モデレーターも強く共鳴した重要な論点だった。観光インフラは旅行者のためだけでなく、地域住民の生活の質向上にも資する。その視点を持つことで、行政の予算配分を動かす説得力にもつながるという指摘は、今後の観光政策を考える上で示唆に富んでいる。
コミュニティの意思、「準備できている」と「歓迎したい」は別物
質疑応答で浮かび上がったもう一つの重要な論点が、コミュニティの主体性である。
準備が整っているコミュニティでも、必ずしも観光客を歓迎したいとは限らない。一方で、まだ準備が十分でなくても、ぜひ来てほしいと考えている地域もある。
この発言は、観光開発において地域の意思を尊重することの難しさと重要性を端的に示している。
さらに、アメリカの先住民族であるネイティブ・アメリカンやアラスカ先住民、ネイティブ・ハワイアンの事例を引きながら、「コミュニティは決して一枚岩ではない」という指摘もなされた。観光振興は外部から一方的に「押しつける」ものではなく、地域が主体的に「招き入れる」ものであるべきだという視点である。
また、OTAの視点からは、ソーシャルメディア(SNS)によって引き起こされる急激な需要の増加への懸念も共有された。短期的には需要のコントロールが難しくなる一方で、長期的には価格上昇による需要抑制といった市場の自己調整が働く可能性も指摘された。しかし同時に、「計画によって訪問者の流れをデザインすることは可能である」とし、観光地側が主体的に需要をマネジメントしていく重要性が強調された。
リジェネラティブな視点から、「分配」という問いかけ

今回のセッションを通じて、リジェネラティブツーリズムの観点から特に重要だったのは、「加算」から「分配」へという視点の転換である。多くの国で観光政策が「いかに多くの人を呼び込むか」に焦点を当てる中、このパネルでは、主要観光地への集中をあえて抑え、第二の観光地へと訪問者を再配分していく考え方が繰り返し強調された。スロートラベルの本質は、単に移動のスピードを落とすことではなく、観光の恩恵が特定の場所や人に偏る構造そのものを見直すことにある。
TATが掲げる「量ではなく価値へ」という転換、バハマにおける「ファミリーアイランドをあえて小規模なまま維持する」という選択、そしてアンドリュー氏による「訪問者数ではなく、地域内に残る収益を指標にすべきだ」という提言。これらはいずれも、従来の観光の“成功”の定義を問い直す試みといえる。
成功するデスティネーションとは、意図して設計された場所である。ただ待っているだけの場所ではない。
この言葉は、本セッション全体を貫く核心的なメッセージだった。スロートラベルは、消費者トレンドとして確実に広がりを見せている。しかし、それを地域の再生につなげるためには、魅力的なマーケティングよりも先に、受け入れを支えるインフラとガバナンスの整備が不可欠であり、数値目標を追う前にコミュニティの意思に耳を傾ける必要がある。
2026年のGSTCのグローバル・サステナブル・ツーリズム・カンファレンスがタイで開催されたことも象徴的だ。タイ自身が「量から価値へ」の転換を模索し、55のセカンダリーシティとどう向き合うかという課題に直面しているからである。この問いは、日本を含むアジア各国に共通するテーマでもある。
リジェネラティブな旅とは、訪れる場所をより良くしていく旅である。スロートラベルはその実践形のひとつだ。では、それを支える「見えないインフラ」は誰が、どのように整えるのか。その問いに、私たちはこれからも向き合い続ける必要がある。
(取材・文:市川隆志/リジェネ旅編集部)
本記事はGSTC Global Conference 2026(2026年4月、プーケット開催)クロージングセッション「Slow Travel: Staying Longer and in Secondary Destinations」の取材に基づいています。

