画像提供:公益財団法人 知床自然アカデミー
ヒグマによる人身事故が報じられるたび、こんな声が聞こえてくる。「人間がクマの縄張りに入ったからだ」。もっともらしい説明に聞こえるが、実はヒグマは縄張りを持たない生き物である。
ヒグマは行動圏は持つものの、それは排他的に守るべき「領土」ではない。複数の個体の行動圏は重なり合うこともあり、状況に応じて彼らの対応は柔軟に変わる。
「縄張りに踏み込んだから襲われた」という説明をはじめ、こうした先入観はいま、驚くほどの速さで広がっている。「クマとはこういう生き物だ」というイメージだけが独り歩きし、肝心の生態は置き去りにされる。

怖がること自体は、間違いではない。けれど、本来の姿を知らないまま怖がるのは、正しく恐れているとは言えないのではないか。
もっと、クマのことを知りたい。その一心で2025年夏、公益財団法人 知床自然アカデミーが開く「知床ネイチャーキャンパス2025 リカレント ヒグマ管理 」を受講した。専門家のもとでヒグマの生態をはじめ、管理の考え方や現地の取り組みなどを体系的に学ぶ講座である。
そして、この学びがきっかけとなって、今回、知床自然アカデミーへの取材が実現した。知床という土地を通して、ヒグマだけではなく、野生動物との関わり方について追ってみたい。
担い手なき現場に、知床が育てる「考える力」
知床自然アカデミーは、世界自然遺産・知床を擁する北海道斜里町を拠点に、クマやシカといった野生動物と人がどう折り合うかを、現場で考える教育・研究機関である。もともとの名称は「知床自然大学院大学設立財団」といい、その名のとおり、知床に自然系の大学院大学を設立することを目指して2013年に発足した。

ところが、大学院大学の設立に向けて活動を続けるなかで、先立って「知床ネイチャーキャンパス」という事業が動き出した。これは、学生や各地の実務者が知床に集まり、座学と現地実習を通して、野生動物との向き合い方を体系的に学ぶプログラムである。現場のニーズに応えるという形で、教育の場そのものが一足先に形になっていったのである。

こうした実践の積み重ねを踏まえ、教育・研究機関としての活動実態により即した組織として、2025年4月に「知床自然アカデミー」へと名称を改めた。高校生から社会人と、ここで学ぶ対象は幅広いが、知床自然アカデミーが掲げるミッションの柱は「人材養成」である。
その背景には、知床という一地域の事情を超えた、国全体の課題がある。現在、日本の野生動物をめぐる状況は転換期にあると言われる。クマの市街地への出没、シカやイノシシによる農林水産業被害、外来種による生態系への影響など、人間社会と野生動物との軋轢が全国で激化しているのだ。
こうした被害への対応が全国で求められる一方、現場で個体数調整や被害調査などの実務にあたる行政担当者は、たいてい少人数である。専門知識を持つ同僚もいないまま、孤独に問題へと向き合っているのが現状だ。そういった背景を踏まえ、専門的な知識と経験を持つ職員の配置を求める声が、各地から上がり続けている。

こうした行政の専門人材不足に加え、高齢化や人口減少による狩猟者の減少も進んでおり、野生動物対策の担い手不足は、すでに国レベルで喫緊の課題として認識されている。環境省からの審議依頼を受けた日本学術会議は、2019年8月に回答書「人口縮小社会における野生動物管理のあり方」を取りまとめた。
同回答書では、野生動物による被害や生態系の問題と、それに伴う地域社会の環境・社会・経済面での諸課題を切り離さずに一体として捉え、政策立案から地域住民との合意形成に至るまでを担う高度な専門人材、いわゆる「ワイルドライフマネージャー(保護管理専門官等)」を養成すべきだと提言している。
あわせて、こうした人材を継続的に育てていくため、大学院(修士・博士課程)などを活用した専門課程と研究の場を構築し、体系的な教育システムを整備するよう求めた。[1]
これを受け、環境省と農林水産省が連携し、学識経験者らによる「野生動物管理教育プログラム検討会」が立ち上がり、専門家養成の土台となる「野生動物管理教育モデル・コア・カリキュラム」が策定された。野生動物問題が複雑化するなか、専門家の養成はもはや一地域の努力だけでは追いつかない、国全体の課題になっている。[2]
こうした社会的な動きのなか、専門人材の育成に取り組んできた「知床自然アカデミー」が立っているのは、まさにワイルドライフマネージャー教育の最前線だ。ここでは、知床の自然そのものを「教育の場」と位置づけ、現場に根ざした実践的なプログラムを展開している。
ただし、ここで学べるのは、全国どこにでも通用するいわゆる「正解の型」ではない。クマやシカなど野生動物への対応は、その土地の地形や気候、人々の暮らしや産業によって複雑に変わる。求められる対処法は地域ごとに、そして年ごとに変わっていくものであり、知床の事例をそのまま模倣することは、決して最適解にはならないからだ。
アカデミーが提供する価値は、単一の答えそのものではない。それぞれの現場において、自ら最適解を考え抜いて実行するための「力」なのである。

大自然が教える、生態系の繋がり
知床自然アカデミーが提供する「知床ネイチャーキャンパス」は、知床という土地でどのような教育ができるのかを形にし、その価値を外の人たちへ届ける試みとして2016年に立ち上がった。
年に数回のプログラムには、当初想定された野生動物や環境の専門家だけでなく、文系の学生、地方移住を考える人など、多様な人々が道内外から集まる。近年は「海・川・森」というテーマを年替わりで掘り下げるほか、ヒグマ管理の講座も並行して開かれており、野生動物と人との関わりを幅広く学べる構成になっている。
というのも、知床の自然はいま、教科書どおりにはいかない「変化の只中」にある。温暖化で雪が減れば、シカが増えて植生が変わる。サケの遡上が揺らげば、それを糧とするクマやワシの暮らしも動く。
人の側も、団体バスの周遊からマイカーへとアクセスを変えたり、シーカヤックのような体験型ツーリズムが人気を博したりと、自然に近づく密度を上げてきた。正解のない問いが、次々と現場に持ち込まれる。だからこそ講座では、答えではなく「問いの解き方」を学ぶのである。

2025年、世界自然遺産登録から20周年でもある節目に開催された知床ネイチャーキャンパスのテーマは「河川生態系の復元」である。海と川と陸の繋がりこそ、知床が世界に認められた価値である。その繋がりを、河川を軸に身体で辿る講座だ。
オンライン講義で知識を蓄えたあと、受講生は知床の複数の川に足を運ぶ。そこで繰り返し説かれるのは、「同じ知床の川でも、流域ごとに顔がまるで違う」ということ。希少なイトウの棲む斜里川は、下流・中流・上流でまったく異なる表情を見せる。下流には釣り人とカワウ、中流には畑や道路、上流には地域の水資源と、流域ごとに関わるものがまるで違う。関わる人や環境が違えば、そこに生じる課題もまた違ってくる。

標津川では、受講生自身が川に入り、市民が設置した魚道に水が流れる様子を間近で見る。魚道という川の一点に手を入れることが、標津川の魚を、知床の魚を、そしてその魚を糧とするシマフクロウを守ることへと繋がっていく。一点への働きかけが、生態系全体を動かす、そんな包括的な視点を受講者たちは現場で学ぶ。

知床で野生動物を学ぶうえで、ヒグマは避けては通れない。知床ネイチャーキャンパスでも、ヒグマを主題とする講座は2023年以降開催され、2016年ごろからも折に触れて開かれてきたが、全国でクマ問題が深刻化するいま、その内容は切実さを増している。
オンデマンド講義ではヒグマの生態と管理の基礎をはじめ、北海道の保護管理をめぐる課題、管理計画の作り方と運用、さらには知床の現場が抱える実際の課題を学ぶ。
現地実習では受講生はまず、ヒグマの出没が相次ぐ知床五湖の遊歩道をネイチャーガイドの案内で歩く。観光と両立させながら対策をどう回すのか、その最前線でガイドが担う役割は何か。増え続ける訪日外国人観光客の姿とともに、いまの知床を肌で感じる。
市街地に移れば、様相は変わる。ウトロでは、電気柵や学校の周辺を視察し、ヒグマ出没時に現場がどう動くのかを知る。2023年の大量出没で、出没現場に駆けつけた担当者がどれほど過酷な勤務を強いられたかなど、リアルな現状が語られる。


観光地としての性格が強いウトロとは対照的に、漁業の町として知られる羅臼にも出向き、展望台から地形とゾーニングを見渡し、海岸沿いの出没現場に立つ。捕獲対応中に負傷した担当者の話を聞いて、ヒグマ対策が背負う危険の大きさを知る。

そして最終日、受講生はそれぞれの学びを持ち寄り、知床の課題解決に向けた「ヒグマ管理方針」について互いにアイデアを出し合いながら、自らの手で組み立てていく。ここでも問われるのは、既成の正解ではなく、考え抜く力だ。

知床を「自分の問題」にする人たち
知床自然アカデミーは、オンライン講座や実習など「知床ネイチャーキャンパス」で学ぶ人たちに、どのような変化を感じているのか。事務局・企画広報担当主任の竹川智恵さんが「嬉しい変化」として真っ先に挙げたのは、現職者たちの繋がりだった。
孤独に現場と向き合ってきた担当者たちが、知床に集まり、同じ志を持つ仲間と真剣に議論を交わし、自分の考えを言葉にして持ち帰る。すると参加者の多くが、活力を取り戻して帰っていくのだという。

また、知床自然アカデミーが結ぶ出会いは、一度きりで終わらない。知床ネイチャーキャンパスの卒業生が、やがて知床の自然を守る仕事に就くこともある。あるいは、賛助会員として寄付を続けたり、観光で知床を再訪したりする人もいる。アカデミーで学んだ経験が、その後も知床と関わり続ける「入口」になっている。
こうした関わりは企業や学校にも開かれており、連携は年々厚みを増している。教育の現場では、京都の高校の探究学習プログラムを知床自然アカデミーが担っている。特徴的なのは、生徒たち自身が問題意識を持ち、何を学ぶかを決めていくことだ。
「ヒグマとの共存」や「流氷から始まる自然環境」といった、その年ごとのテーマに合わせてワークショップや講義を組み立てる。教科書には載らない深さの学びを通じて、次の世代が、知床の課題に触れていく。


知床自然アカデミーとの関わり方は、企業によっても多様である。地元のホテルをはじめとする企業は、賛助会員として活動を支えている。さらに近年は支援にとどまらず、ミッションを共有する企業との本格的な連携も動き出した。その象徴が、アウトドアメーカーの株式会社モンベルである。
2025年12月、知床自然アカデミーはモンベルと包括連携協定を結んだ。翌2026年3月、その締結を記念するシンポジウム「森と山の恵みを守り、楽しみ、未来につなげる〜野生動物との共生社会を目指して〜」がモンベル品川店のイベントホールで開かれ、会場には85名、オンラインでは146名が参加した。

事例発表に立った4名のうち2名は、王子ホールディングスと、サントリーホールディングスである。紙・パルプ事業の王子ホールディングスは、原料となる木材を育てる社有林でのシカ対策を、飲料事業のサントリーホールディングスは、製品の水源となる涵養林「天然水の森」においてのシカの採食圧対策をそれぞれ報告した。
国内外に63.6万haもの森林を所有している王子ホールディングスは、所有林にどんな生き物がどれだけいるかをビッグデータで解析し、自然の豊かさそのものを可視化する試み「森の価値見える化プロジェクト」を進めている。

とりわけ豊かな生態系が期待されたのが、北海道・猿払(さるふつ)の社有林だった。現在同社は、この森を起点として、イトウの遡上や産卵を促す河川工作物などの改修を通じて、「森・川・海の繋がり」の再生にも取り組んでいる。
猿払はホタテの生産地として知られているが、そのホタテ漁を支えているのは、上流の湿地から川を経て海へ供給される「鉄分」だ。つまり、上流の森や湿地を保全することは、豊かな海の恵みを守ることに直結しているのである。
一方のサントリーホールディングスにとって、良質な地下水は事業の生命線だ。全国の水源涵養林「天然水の森」では現在、シカによる食害が深刻な課題となっている。

森に降った雨が地下へ浸透し、製品として汲み上げられるまでには約20年の歳月がかかるため、水を育むには「ふかふかな土壌」が欠かせない。しかし、シカに下草を食い尽くされればその土壌が流れ出してしまい、森の保水力が根本から衰えてしまう。
そこで同社は、柵で囲うことで植生を守り、一部ではセンサーカメラを用いてシカの侵入を監視している。さらに、地元のハンターに依頼してシカを捕獲し個体数を抑えることで、一部の森林ではようやく植生の回復が見られ始めている。
森が荒れれば、木材の価値も、水を育む力も損なわれる。野生動物の管理は両社にとって、それぞれの事業の根幹を左右する経営課題そのものなのだ。この構図は、先に触れたワイルドライフマネージャー養成の話と繋がっている。全国で野生動物問題が激化を見せる一方で、対処できる専門人材が圧倒的に足りない。森を、水を、山を事業の基盤とする企業もまた、同じ担い手不足の当事者なのだ。

だからこそ企業は、自社の課題を解く手がかりを求めて、知床で学術的に環境保全を学ぶ必要がある。その一人ひとり、一社一社の細い糸が束になったとき、はじめて「担い手」の層は厚くなる。関係人口とは、単に「知床を訪れる人の数」だけではなく、知床を「自分の問題」として引き受ける人の、広がりのことでもある。
知床自然アカデミー事務局の業務執行理事で、かつて知床博物館の館長も務めた中川 元さんは長年、知床で人と野生動物の共生に向き合ってきた人物だ。そんな中川さんは、「保護活動とは決して、何もしないで放っておくことではない」と指摘する。

野生動物の管理も、生態系の維持も、突き詰めれば人の手が支えている。その手を担う人が地域から減っていけば、積み上げてきた保護も管理も、やがて立ちゆかなくなる。
だからこそ、より多くの人に、知床に関心を持ってもらうことが大切なのだ。知床に関心を持つ人が増えることは、保護の担い手が増える可能性を秘めている。観光で訪れた人がボランティアとして関わるようになったり、講座を受講した若者がいずれ現場の専門人材として戻ってきたり。そうした関わりの積み重ねが、地域が保全を続けていく力そのものになる。
「正解がないからこそ、その都度やっていかないといけない」という中川さんの言葉通り、シカの個体数を減らせば済む、植樹を囲えば済むという単純な答えは存在しない。サケの遡上、雪の量、シカの増減、植生の変化。すべてが絡み合い、年ごとに動いていく。昨年の正解が、今年の正解であるとは限らない。自然に関わり続け、その都度考え直すほかないのだ。

では、その関わりをどうやって広げていくのかと考えたとき、知床を多く訪れる「観光客」に可能性を見出せる。彼らにどう関わってもらうかは、保護の裾野を広げるうえで避けては通れない重要な視点であるが、知床においては一筋縄ではいかない難しさを孕んでいる。
中川さんによると、知床では「ヒグマを見せたいのか、それとも見せたくないのか」という議論が実際に起きたそうだ。ヒグマがいることは、知床という土地の紛れもない価値であり、その姿を「一目でいいから見たい」と願う観光客は多い。
けれども、人とヒグマの距離が近づくにつれ、ヒグマが人慣れしてしまうリスクが高まる。見せることの価値と、見せないことの安全性は、いつも背中合わせだ。どちらかを選べば済むと言う単純な話ではなく、状況を見ながらその都度、判断を重ねるほかない。
そして、その難しい判断を現場で下し続けているのは、地域の人々である。ヒグマ対策にあたるのも、観光客に向き合うのも、そこに暮らす人たちだ。その暮らしが立ちゆかなければ、保全の現場は痩せていく。「地域が持続可能でなければ、保護もまた持続可能ではない」と、中川さんは指摘する。
だから知床自然アカデミーは、外の世界に開かれているのだ。オンライン講座で生態を学ぶ、ボランティアに加わる、賛助会員として財団を支える、修学旅行で訪れる。どれもが関わりの入口になる。「崇高な使命」と身構える必要はなく、まずは「知床が好き」という気持ちから、環境保全は始まるのだ。
そんな「知床を知る」入口は、この夏も開かれる。海・川・森の繋がりを現場で学ぶ「知床ネイチャーキャンパス」は、2026年のテーマに「海」を掲げる。


8月下旬のオンライン講座では、知床沿岸の海洋環境や海鳥・海ワシの生態、鮭がつなぐ漁業と地域づくり、羅臼の海のエコツーリズムまでを、第一線の研究者と実務者が解説する。9月の現地実習では、羅臼沖の船上から海の野生動物を観察し、鮭の水揚げや遡上の現場に立ち、海と人の関わりを考える。
オンラインだけでも参加できるので、まずは海の生態系や海洋保全の入口を覗いてみたい人にもおすすめだ。知りたい、学びたいと思ったその瞬間から、誰もが自然と人の未来をつくる担い手になれる。
参照:【受講生募集】知床ネイチャーキャンパス2026「豊かな『海』の生態系とマネジメント」開催決定!
取材協力:公益財団法人 知床自然アカデミー
参考文献
