温暖化対策に不可欠なアイルランドの泥炭地「peatland」とは

ヨーロッパ北西部の大西洋に浮かぶアイルランド島は、国土の20%以上がpeatland=泥炭地です。泥炭地は、ミズコケなどのコケ類や湿地植物が分解されないまま、数千年に渡り堆積してできた有機物の厚い泥炭層で形成されており、湿地状態が保たれていることで大量の炭素を貯蔵できるため、「炭素シンク」とも呼ばれています。
炭素はタンパク質、脂質、炭水化物、DNAなど、あらゆる有機物の骨格を作る元素です。植物は光合成で二酸化炭素を取り込み、炭素を体内に固定して有機物を生成し、それを動物や微生物が摂取します。この炭素循環は地球生命システムの根幹を成し、大気中のCO2濃度を下げることで温暖化を緩和する役割を果たしています。
アイルランドには、深さが最大10メートルに達する「深層泥炭」と呼ばれる高層湿原があり、最大150万ヘクタールにも及び、炭素シンクとして非常に重要な役割を担っています。しかし近年、排水、森林化、伐採、牧草地への転換によって、泥炭地の乾燥化と劣化が深刻な問題となっています。

泥炭地が乾燥化・劣化に陥った背景
アイルランドでは長年、泥炭が家庭用燃料や発電用燃料として利用されてきました。泥炭を採掘するには湿地を排水して乾燥させる必要があり、国営企業「Bord na Móna」による大規模な採掘が排水の進行を促しました。
さらに、20世紀半ば以降、農業生産性を高めるために湿地を乾燥化して牧草地に転換する補助金制度が導入され、多くの泥炭地が牛や羊の放牧地となりました。また、自然状態では森林が育ちにくい泥炭地に、外来種の針葉樹(特にシトカスプルース)を排水後に植林する政策も進みました。これは国家森林拡大計画の一環で、木材産業の強化や農村地域の雇用創出が目的でした。こうして森林化された泥炭地は一定期間後に伐採され、木材やパルプ材として利用されることで、生態系は元の姿に戻らず大きく変化しました。
本来、二酸化炭素を吸収する炭素シンクとして機能していた泥炭地は、こうした政策や経済活動により炭素を放出する「排出源」へと転じてしまったのです。しかし現在、様々な再生プロジェクトが始動し、再湿地化への取り組みが進められています。
アイルランドの泥炭地を再び湿地化に戻すプロジェクトが始動

アイルランドでは、欧州の「Just Transition Fund(以下、JTF)」を活用し、劣化してしまった33,000ヘクタールもの泥炭地を再び湿地化する復旧事業が行われています。また、湿地化するだけでなく、敷地内にサイクリングやウォーキングトレイル、宿泊施設などの建設も予定しており、観光地としても機能させ、観光を通して、生物多様性保全と地域経済の再生を図る計画も含まれています。すでに、200以上の宿泊施設のオープンが見込まれており、持続、包摂、再生の3つを組み合わせた包括的アプローチとして注目を集めています。
JTFとは、欧州連合の執行機関である欧州委員会が2019年12月11日に発表した包括的な気候変動対策「欧州グリーンディール(European Green Deal)」の一部です。2030年までに達成することを目標に掲げられた気候中立化への移行で被害を受ける化石燃料、石炭、泥炭、油頁岩産業が盛んな地域や温室効果ガス排出量が高い産業プロセスに依存している地域を支援しています。
アイルランドの復旧事業においては、地域バス路線とバス事業者の車両群の脱炭素化、電気自動車用急速充電ポイントを設置することで、地域の持続可能でスマートなモビリティ開発を支援したり、地域の経済多様化と雇用創出を支援するため、約500の地元の中小企業に支援を行う見込みとなっています。また、「卓越研究センター」をはじめ、グリーン経済、循環型経済分野の研究開発にも投資され、有機土壌からの排出削減に関する先駆的研究が実施されます。
アイルランドで進められている主な泥炭地再生プロジェクトとは
実際にはどのような再生プログラムが行われているのでしょうか?主な例を挙げて説明していきます。

1. The Living Bog Project(リビング・ボグ・プロジェクト)
「The Living Bog Projec」とは、欧州連合が環境保護、気候変動対策を支援するために1992年に創設した資金助成「LIFEプログラム」の支援を受けて進められているアイルランド最大規模の泥炭地保全事業です。国内12か所の指定湿原を対象に、劣化した高層湿原の復元と長期管理を進めています。水位回復や植生の再生により炭素の固定、生物多様性回復、地域コミュニティとの協働を目指しており、アイルランドにおける国の代表的プロジェクトとして国際的に知られています。
2. Bord na Móna Restoration Program(ボード・ナ・モナ再生プログラム)
「Bord na Móna Restoration Program」とは、長年に渡り、泥炭の採掘や供給を担ってきた国営企業「Bord na Móna」が、採掘を大幅に縮小、もしくは終了させ、数万ヘクタール規模の湿原を再湿地化するために進めているプログラムです。再湿地化だけでなく、再生可能エネルギー事業へのシフトや地域雇用創出とも結びついており、「産業から環境へ」という象徴的な転換事例として世界的に注目されています。

3. Abbeyleix Bog Project(アビーライクス・ボグ・プロジェクト)
「Abbeyleix Bog Project」とは地域住民やボランティア団体が主体となって進めているコミュニティ主導型の湿原保全、再生プロジェクトです。かつて採掘の対象だった泥炭地を観察路や教育プログラムを通じて、地域資源として活かしつつ保全するモデルを確立しています。行政主導ではなく、市民の手で守る湿原という象徴的な取り組みとして高く評価されています。
4. Shared Island Initiative Peatland Programme(SIIPP:共有島イニシアティブ泥炭地プログラム
通称「SIIPP」とは、2023年に始動した新しい国境横断型プログラムとして、アイルランド、北アイルランド、スコットランドの3地域が連携して泥炭地再生や管理の強化を図るプログラムです。気候変動対策、炭素排出削減、生物多様性回復に加え、長期的な管理体制の構築や社会文化的課題への対応も目的に含みます。国際協力や知見共有の色合いが強く、将来のモデルケースとして注目されています。
上記のプロジェクトやプログラム以外にも最先端のモデリングや復元強化のための知見提供に焦点を当てた研究・実証型プロジェクトの「WET-PEAT」や農家・土地所有者ネットワークのモデル構築を目指すコミュニティ連携型の「Mayo Bogs Project」など、特定の地域や技術開発に焦点を絞った補完プロジェクトも存在します。
持続可能なスコッチウイスキー作りにも必要なピート(泥炭)
実は、ピート(泥炭)は発電燃料として活用されるだけでなく、スコッチウイスキーの製造工程でも重要な役割を果たしています。ピートは乾燥状態でも20〜25%の水分を含んでおり、燃やすことで独特の煙たい香りを発生させます。この煙により、発芽乾燥された大麦に香りがじっくりと吸収され、スモーキーな風味のウイスキーが生まれます。こうして生まれるスモーキーなフレーバーは、スコッチウイスキーの大きな特徴のひとつであり、ジャパニーズウイスキーや他国のウイスキーと比べても、ピート香が強い製品が多い理由となっています。
スコットランドでは、古くからピートを燃料として使用してきました。地域の人々にとって重要なエネルギー源であり、生活のために利用している分には自然への影響は問題視されていませんでした。しかし、商業利用が広がるにつれて、湿地や生態系への影響が深刻化したのです。
こうした背景から、スコッチウイスキーの製造で使用されるピートの持続可能性を確保するため、ウイスキーメーカーがピート湿地の再湿地化(peatland rewetting)プロジェクトに取り組むようになりました。例えば、サントリーはスコットランドのアードモア蒸留所近郊で2021年からピート湿地再生を開始し、現在までに206ヘクタールを再生。2030年までに1,300ヘクタール、2040年までに2,600ヘクタールの再生を目標としています。この取り組みは、スコッチウイスキー製造に必要なピートを持続可能に供給することを目的としています。
最後に

泥炭地の乾燥化や劣化はアイルランドに限った問題ではなく、フィンランドやスウェーデンといった北欧でも同様に問題視されており、再湿地化のプロジェクトが進められています。他にも、インドネシア、マレーシア、シベリア、アラスカなど世界各地でも同じ現象が起きています。アイルランドで現在進められている泥炭地の再生プロジェクトは、炭素貯蔵、生物多様性保全だけでなく、地域経済、観光、コミュニティ参加、教育など多方面の利益を想定しており、「復元+地域振興」という包括的アプローチが他国からも注目を集めています。同じ問題を抱える国の参考となる良いモデルケースであり、今後、世界に広がっていくことで温暖化の緩和へと繋がっていくのではないでしょうか。
