「A net zero roadmap for travel and tourism」から学ぶ|観光産業の持続可能な未来設計

世界旅行ツーリズム協議会(WTTC)は、国連環境計画(UNEP)とアクセンチュアと協力し、2021年11月に、観光産業におけるネットゼロ達成に向けた具体的な道筋を示すレポート「A Net Zero Roadmap for Travel & Tourism」を発表しました。
このリポートは、観光産業の現状と課題を分析し、業界全体で温室効果ガス排出量を削減するための目標フレームワークと行動指針を提供しています。
2021年11月に第1版が、2024年11月には第2版が発行されました。また、気候変動対策に関する国際的な枠組みである「グラスゴー宣言」とも連携しています。
※グラスゴー宣言は、観光分野における気候変動対策を加速させるため、2030年までに観光部門のCO2排出量を半減し、2050年までにネットゼロエミッションを達成することを目指す国際的な共同宣言です。
「A Net Zero Roadmap for Travel & Tourism」作成の背景と目的

このレポート作成の背景には、観光産業にとって気候変動が無視できない脅威となっている現状があり、影響は下記のように多岐にわたります。
- 自然災害による観光インフラへの被害
- 海面上昇による観光地の消失
- 生態系の変化による観光資源の減少など
また、パリ協定が掲げる「気温上昇を1.5度未満に抑える」という目標に向けて、観光産業も一体となった脱炭素化が求められています。
WTTCはこの認識に立ち、観光産業における脱炭素化の現状や課題を明確にし、有意義な対策と排出削減への道筋を示すことを目的にレポートを発表しました。
本レポートでは、業界全体への呼びかけとともに、各業種に応じた具体的な脱炭素化アクションを提示し、観光産業の持続可能な未来への指針を示しています。
レポートの構成と主要な提言
「A Net Zero Roadmap for Travel & Tourism」は、本編と付属書(ANNEX)で構成されており、本記事では本編の内容を中心に整理して解説します。
本編には、エグゼクティブサマリー、背景、レポート概要、現状分析、新たな目標枠組み、脱炭素化のためのガイド、結論と行動への呼びかけが含まれています。
レポートでは、観光産業が2050年までにネットゼロを達成するには、公共部門と民間部門が協力して取り組む必要があると強調しています。特に以下の5つの民間セクターに焦点を当て、各業種別に、求められるアプローチや行動指針を提示しています。
- 宿泊施設
- ツアーオペレーター(TO)
- 航空会社
- クルーズ船
- オンライン旅行代理店/旅行代理店(OTA/TA)
また、各業種はビジネスモデルや排出量の特性が異なるため、業種ごとの脱炭素化アプローチが不可欠であることも指摘されています。
さらに、すべての業種に共通する行動指針として、次の5つが掲げられています。
- 科学的根拠に基づいた排出量基準と目標を設定する
- 進捗状況をモニタリングし、透明性のある方法で報告する
- 業界内外でのコラボレーションを推進する
- 脱炭素化に必要な資金と投資を確保する
- 気候変動に関する意識を高め、能力構築に努める
このように、レポートは観光産業が脱炭素化を進めるための実践的な道筋を示しています。
ロードマップが示す脱炭素化への道筋
「A Net Zero Roadmap for Travel & Tourism」は、観光産業が脱炭素化を実現するための具体的な目標と行動の枠組みを示しています。
この枠組みは、短期(2020-2030年)、中期(2030-2040年)、長期(2040-2050年)の三つの期間に分けられ、それぞれの期間で達成すべき目標が設定されています。
短期目標(2020-2030年)
この期間では、カーボンニュートラルの達成を目指します。カーボンニュートラルとは、温室効果ガスの排出量と吸収量を均衡させることです。
排出量の削減努力とともに、どうしても削減できない排出量については、植林などの吸収活動やカーボンオフセットによって相殺することが含まれます。
中期目標(2030-2040年)
中期では、スコープ1とスコープ2におけるネットゼロの達成を目指します。
スコープ1は事業者自身の直接的な排出(燃料の燃焼など)、スコープ2は事業者が使用する電力などの間接的な排出を指します。この期間では、より積極的な排出量削減が求められます。
長期目標(2040-2050年)
長期では、スコープ1、2に加えて、サプライチェーン全体を含むスコープ3におけるネットゼロの達成を目指します。
スコープ3は、原材料の調達、製品の輸送、顧客の利用など、事業活動に関わるすべての間接的な排出を指し、最も広範囲な排出量をカバーします。
目標達成に向けた考え方
ロードマップでは、それぞれの旅行・観光関連事業者が、自社のビジネスモデルや排出特性に応じて、これらの目標期間に沿った脱炭素化戦略を策定し、実行していくことの重要性を強調しています。
また、目標達成の進捗状況を定期的に監視し、透明性のある方法で報告することの重要性も指摘されています。
さらに、業界内外の様々な関係者との連携を通じて、知識や技術を共有し、共同で課題解決に取り組むことの必要性も強調されています。
観光産業における脱炭素化の現状
観光産業は、世界経済を支える重要な産業である一方、温室効果ガス排出においても無視できない存在です。ここでは、業界全体の排出量の現状と、業種ごとの特徴について整理し、脱炭素化への課題を明らかにします。
世界の温室効果ガス排出量と観光産業の割合
観光産業は、運輸、小売、農業、サービス業など幅広い分野と深く関わっています。その規模と影響力から、温室効果ガス排出源としても重要な位置を占めています。
より最近の推計では、観光産業による排出量は、世界全体の8〜11%(2019年時点で約39〜54億tCO₂e)に達しているとされています。この増加傾向は、観光産業における脱炭素化の緊急性を強く示しています。
主要な排出源と業種別の状況
観光産業における主要な排出源は、輸送、宿泊、その他の活動に分類。業種別に見ると、航空部門が業界全体のCO2排出量の大部分を占めています。
航空、宿泊、クルーズ分野では、比較的多くの排出量データが蓄積されています。
一方で、ツアーオペレーター(TO)や旅行代理店(TA)など仲介業者は、業界が細分化されているため、排出量の把握が難しい状況です。
しかし、これらの仲介業者も、旅行手配に大きな影響力を持つ存在です。そのため、サプライチェーン全体の脱炭素化を進める上では、重要な役割を果たすと考えられます。
国内外の脱炭素化に向けた取り組み
世界的に、観光産業における脱炭素化への取り組みは加速しています。
2024年11月にアゼルバイジャンで開かれたCOP29(国連気候変動枠組条約第29回締約国会議)では、「グラスゴー宣言」の目的を再認識し、さらに一歩進んだ「バクー宣言」が発表されました。[1]
宿泊、航空、クルーズなど各業種でも、脱炭素化に向けた取り組みが進んでいます。
航空業界では、国際民間航空機関(ICAO)が、国際航空からのCO2排出量を2020年以降増加させない目標を掲げています。国内の航空会社にも、温室効果ガス排出量の算定と報告が義務付けられています。
宿泊業界では、ホテルチェーンが再生可能エネルギーの導入や省エネルギー化を推進しています。
国内に目を向けると、2020年10月に日本政府が「2050年カーボンニュートラル宣言」を発表しました。
2021年6月には、その実現に向けた「グリーン成長戦略」が示されています。国土交通省も「観光立国推進基本計画」の中で「持続可能な観光」を重要なキーワードとして掲げました。しかし、国内の観光産業全体としてのCO2排出量削減目標は、まだ明確に示されていません。
一方で、国内の旅行代理店やランドオペレーター、関連事業者にも脱炭素化への動きが見られます。
たとえば、JTBは2007年にエコツアーブランドを立ち上げ、「CO2ゼロ旅行」の販売をスタート。また、近畿日本ツーリスト(KNT)も、環境負荷低減に向けた取り組みを進めています。
旅行代理店やランドオペレーターにおける脱炭素化の課題
WTTCのレポートによれば、海外でも観光産業はーは他業種に比べ、脱炭素化への取り組みが遅れている傾向にあります。
日本国内でも、JTB総合研究所と立教大学が2021年6月に発表した調査によると、ヒアリング対象となった業種の中で「観光産業」がSDGsに取り組む企業の割合が最も低い(16%)という結果が明らかになりました。
この結果は、旅行代理店やランドオペレーターをはじめとする観光事業者の脱炭素化への意識や行動が、まだ十分でない可能性を示唆しています。
旅行代理店で取り組みが進まない理由
旅行代理店で脱炭素化の取り組みが進みにくい背景には、以下の要因が考えられます。
- 間接的な排出量の把握・削減の難しさ
- 統一された測定基準の不在
- 推進のためのリソース不足(時間、予算、知識)
- 顧客への情報提供や意識への働きかけの課題
- 自社で直接管理できる部分が限られている
これらの要因が複合的に影響し、脱炭素化に向けた取り組みが遅れる原因となっています。
排出量の把握・削減の難しさ
ツアー商品は輸送や宿泊、観光施設など外部のサービスを組み合わせて構成されるため、特に資産を所有しないツアーオペレーターやオンライン旅行代理店においては、温室効果ガス排出量の大部分が自社では直接制御できないスコープ3(間接排出)となります。
これらの間接排出量の定義や正確な測定、算定が難しいことが課題です。
測定基準の不在
温室効果ガス排出量を測定・報告する際の国際基準は存在しますが、特に旅行代理店やランドオペレーターにおいては、排出量、特にスコープ3の測定と配分に関する統一された測定基準方法や枠組みが存在せず、国や地域を跨いだ連携も不足していることが課題として挙げられています。
時間や予算、知識の不足
企業が脱炭素化を推進するためには、エネルギー効率について検討したり、省エネ計画を立てるための時間、向上への投資を優先する予算、そして関連する知識が必要です。特に中小の旅行代理店やランドオペレーターにおいて不足していることが、取り組みが進まない主な障壁となっています。
顧客への情報提供や意識への働きかけの課題
旅行者の気候危機や持続可能性に対する意識は近年高まっており、より持続可能な旅行を望む声は増えています。
しかし、旅行代理店やランドオペレーターが持続可能な旅行の選択肢を十分に提供できていないこと や、旅行商品の排出量に関する情報提供が一貫していないこと、持続可能な選択肢に伴うコストへの顧客の支払い意欲が限定的であることなどが課題として挙げられます。
旅行代理店やランドオペレーターが排出量を減らすための具体的な手段
「A NET ZERO ROADMAP FOR TRAVEL & TOURISM」では、ツアーオペレーター(TO)やオンライン旅行代理店・旅行代理店(OTA/TA)が、中長期的な視点で自社の排出量を削減するための具体策を示しています。
中期的に温室効果ガス削減効果が大きい順に、以下の手段が挙げられます。
サプライヤーエンゲージメント
航空会社、ホテル、交通機関などのサプライヤーと連携し、より持続可能な選択肢を優先的に選択・提供します。
環境認証取得施設や燃費効率の良い航空会社、再生可能エネルギー活用事業者などを積極的に推奨することが考えられます。サプライヤーに排出量削減への取り組みを促し、共同で目標設定することも重要です。
より持続可能な出張の拡大
社員の出張では、鉄道や電気自動車など低炭素な移動手段を選択します。また、出張そのものの必要性を見直し、オンライン会議の活用など、代替手段の検討も有効です。
オフィスの改善
オフィスのエネルギー効率を向上させ、LED照明の導入や空調管理を徹底。 再生可能エネルギーの導入や、紙使用量の削減、リサイクルの推進など、日常業務でも環境負荷の低減を目指します。
商品とサービスの購入
オフィス用品やサービスを選ぶ際、環境配慮型の商品を選択。環境に優しい文房具や、サステナブルなサービス提供企業との取引などを進めるとよいでしょう。
また、ITインフラを見直し、クラウド利用によるエネルギー効率化を検討することも推奨されます。
持続可能性に関する教育・啓発活動
旅行者に対し、移動手段ごとのCO2排出量比較や、環境に配慮した宿泊施設の紹介などを通じて意識向上を図ります。また、サプライチェーン全体に向けて、脱炭素化に関する啓発活動を展開することも効果的です。
海外の先進的な旅行代理店やランドオペレーターの取り組み
海外では、脱炭素化を積極的に推進する旅行代理店やランドオペレーターが増えています。以下に代表的な取り組み例を紹介します。
フライトフリーの旅の提案 | ・飛行機を使わない鉄道やバスでの旅行を提案し、陸路移動の魅力を発信 ・環境負荷の少ない旅行商品の開発・販売を進める企業も増加 |
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旅行中の環境配慮行動の推奨 | ・旅行者に対し、節水や節電、ゴミの分別、地元食材の活用を呼びかけ ・地域産品の購入など、地域経済に貢献する行動も推奨 |
CO2排出量の算定と公表 | ・旅行商品のCO2排出量を算定し、移動手段や宿泊ごとに可視化 ・旅行者が環境負荷を比較・検討しやすくする工夫 |
カーボンオフセットの提供 | ・旅行による排出量を相殺するカーボンオフセットプログラムを提供 (ただし、オフセットは削減努力を補完する手段と位置付けられている) |
再生可能エネルギーの利用 | ・オフィス電力を再生可能エネルギーに切り替え、脱炭素化を推進 |
消費者、企業、政府の役割
また、観光産業全体の脱炭素化を進めるには、消費者、企業、政府がそれぞれ役割を果たす必要があります。
消費者ができること
消費者は、日常生活に加え、旅行の選択においても環境への配慮を意識することが重要です。
- 公共交通機関や徒歩、自転車など低炭素な移動手段を選ぶ
- 環境認証取得施設など、環境配慮型の宿泊先を選ぶ
- 節水、節電、ゴミ分別など旅行中の環境配慮行動を心がける
- 地元産の食材や商品を積極的に購入する
- 移動回数を減らし、長期滞在型の旅行を検討する
- 旅行代理店やランドオペレーター、宿泊施設の環境情報を積極的に収集する
企業が取り組むべきこと
旅行代理店やランドオペレーターなど観光関連企業は、自社活動における排出削減と、顧客への環境配慮型選択肢の提供に努める必要があります。
- サプライヤーとの連携によるサプライチェーン全体での脱炭素化
- 自社排出量と取組状況の透明な情報開示
- 業界共通基準の遵守と、さらに高い持続可能性目標の設定
- 顧客への教育・啓発活動の強化
政府の支援と政策の重要性
政府は、業界の脱炭素化を後押しするため、明確な目標設定や財政支援を進める必要があります。
- 国内観光産業のCO2削減目標設定とロードマップ策定
- 省エネ設備導入や再エネ利用への補助金支給
- 測定基準と報告枠組みの整備
- 国際連携の推進と情報共有
- 必要に応じた規制・基準の導入
まとめ
観光産業は経済成長や雇用創出に大きく貢献してきた一方で、温室効果ガス排出源としても無視できない存在です。持続可能な社会を実現するためには、この産業における脱炭素化は避けて通れない課題といえるでしょう。
消費者、企業、政府がそれぞれの役割を認識し、連携して行動することが不可欠です。今後は、「A NET ZERO ROADMAP FOR TRAVEL & TOURISM」で示された方向性を参考に、日本の観光産業でも具体的な目標設定や行動計画の策定が進むことが期待されます。
また、最新技術の導入やイノベーション、そして関係者全体の意識改革が、脱炭素化実現の鍵となるでしょう。地球の未来と、魅力あふれる観光地の持続可能性を守るため、私たち一人ひとりができることを考え、行動していくことが、今まさに求められています。

参考文献
TCVC/ WTTC |旅行・観光業 のための ネットゼロ・ ロードマップ 2021
TCVC/JTB総合研究所|令和5年度共同研究 A NET ZERO ROADMAP FOR TRAVEL & TOURISM から読み解く脱炭素に向けた具体的アクションの考察
[1]COP29 Azerbaijan | United Nations Climate Change Conference