ニュージーランド・マオリの知恵が導く再生型観光の未来

世界的に「再生型観光」への関心が高まるなか、その理念をいち早く実践へと移してきた国の一つが、南太平洋のアオテアロア(ニュージーランド)です。その背景には、先住民族マオリが受け継いできた自然観と哲学が深く根づいています。マオリの考え方は、人と自然、訪問者と土地、地域社会と未来世代など、あらゆる存在のつながりを重んじるものです。
2021年に発表された提言では、短期的な利益を追う観光から、地球と人々の長期的な繁栄をめざす「Regenerative and Resilient(再生的かつ強靭な)観光」への転換が示されています。
いま観光産業は、「自然を消費する産業」から「自然と共に再生していく産業」へと姿を変えつつあります。
本記事では、マオリの知恵を土台として形づくられてきたニュージーランドの再生型観光モデルが、実際の現場でどのように実践されているのかを解説していきます。
マオリ哲学が形づくる再生型観光モデル

ニュージーランドの観光産業を支える価値観には、マオリ社会の伝統的な世界観が深く息づいています。とくに、以下の2つが再生型観光の中心的な考え方になっています。
- Kaitiakitanga(カイティアキタンガ)と呼ばれる「守護の思想」
- Tiaki Promise(ティアキ・プロミス)という訪問者に向けた「行動の約束」
これらは単なるスローガンではありません。旅行者・地域社会・自然との関係を「共に守る契約」として捉え直し、「持続可能性」を一歩進めて、再生へとつなげていく概念を社会に根づかせるための、実践的な指針となっています。
Kaitiakitanga(カイティアキタンガ)|自然の”守り手”としての責任
Kaitiakitanga(カイティアキタンガ)は、マオリ語で「守る者・保護者」を意味します。自然や土地、海、動植物は人間の所有物ではなく、先祖から託された宝であり、未来の世代へ受け継ぐべき存在だと考える思想です。この価値観が、観光地の開発にも大きな影響を与えています。
ニュージーランドでは、観光事業者は単に環境への負荷を減らすだけでは不十分だとされています。訪問者との関わりを通じて、「土地そのものを回復させる存在」になることが求められているのです。観光によって得た収益を、生態系の保全や文化継承へと再投資し、環境への負荷よりも再生活動が上回る循環をつくろうとしています。
カイティアキタンガは、経済活動と精神的価値観の両立を目指す、ニュージーランド流の「責任ある観光哲学」といえるでしょう。
Tiaki (ティアキ)– care for New Zealand|訪問者と地域の「共契約」という考え方
Tiaki (ティアキ)とは、「人と場所を大切にする」という意味です。
以下の官民七つの主要組織が連携して生まれました。
- ニュージーランド政府観光局
- エア・ニュージーランド
- 保全省
- 観光産業協会
- 地方自治体協会
- マオリ観光団体
- 観光事業グループ
ティアキプロミスでは、「土地を守り、保護する」ための行動指針が示されています。この「共契約」の考え方は、訪問者を一方的な消費者としてではなく、土地を保全し守るための共同の担い手として迎え入れる姿勢を表しています。
観光客を「保全の担い手」にする仕組みづくり

ニュージーランドでは、観光体験を通じて訪問者が環境保全や地域づくりに参画できる多様な仕組みが整えられつつあります。全国で展開される保全ボランティア・プログラムに加え、寄付プラットフォームや地域観光マネジメント計画などを組み合わせています。その結果、観光収益と保全活動を統合し、観光客を「一時的な顧客」から「土地をともに守り育てる存在」へと位置づけ直しているのです。
ニュージーランド全域で広がる保全ボランティア・プログラム
ニュージーランド全土では、訪問者や地域住民が参加できる保全ボランティア・プログラムが急速に広がっています。保全省を中心に、在来種の保護や生息地の復元に向けた活動が多数用意されており、訪問者が気軽に参加できる環境が整えられています。[3]
訪問者は、一時的に滞在する土地の環境改善に主体的に貢献する喜びを味わい、その地域への親近感やつながりを深められます。
観光体験が行動変容と継続的な支援につながるメカニズム
ボランティア体験が単なる「やってみた」で終わらず、継続的な支援へと発展していく仕組みも用意されています。
初回の資金配分では、6万ドルを超える寄付金が地域の環境団体に分配されました。訪問者は、ボランティア活動という「自分の手を動かす経験」と、寄付による「継続的な支援」の両方から関わり方を選ぶことができます。このアプローチにより、短期滞在の観光客であっても、その地域の生態系回復に「参画者」として関わり続けることが可能になります。観光産業は、従来の販売中心のビジネスから、「社会的インパクトを生み出す産業」へと変化しつつあるのです。
国家レベルの環境・気候政策と観光産業の連動

ニュージーランドでは、国家レベルの環境政策と観光産業が、いま密接に結びつきつつあります。とくにクイーンズタウン湖地方では、地域全体をカーボンゼロ・ビジターエコノミー(観光客がもたらす経済効果)へ転換するという目標が掲げられています。[5]
国が進める気候変動対策と、観光事業者が現場で取り組む「自然環境や地域の暮らしを守り育てる観光」が連動することで、観光による収入が地域に長く生かされ、そこで暮らす人々の暮らしと心や体の健康も同時に高まっています。[6]
カーボンゼロ・ビジターエコノミー2030が描く観光の将来像
クイーンズタウン湖地方の「カーボンゼロ・ビジターエコノミー2030」は、単に排出量を減らすための政策ではありません。地域社会・観光事業者・自治体が連携し、訪問者の移動手段をEV(電動)バスや電動ゴンドラへ切り替える取り組みや、宿泊施設のエネルギー利用の最適化が進んでいます。さらに、アドベンチャーツーリズム分野では電動ジェットボートの導入など、具体的なプロジェクトが進んでいます。
訪問者のカーボンフットプリント(CO2排出量)を見える化し、事業者側は排出量の測定と報告を徹底することで、地域全体の脱炭素化を加速。こうした枠組みを通じて、観光が経済・社会・環境・文化という四つの領域すべてに、持続的な付加価値をもたらす未来像が描かれています。
脱炭素投資と気候リスク管理が観光ビジネスにもたらす新たなコスト構造
カーボンゼロモデルの推進にともない、観光ビジネスのコスト構造も変わり始めています。従来は、環境対応にかかるコストを観光事業者が自ら負担していました。その結果、利益率が下がることが大きな課題でした。
しかし新しいモデルでは、グリーンエネルギーの利用や廃棄物管理、保全活動への寄付などにかかる費用を、訪問者が観光体験の一部として自覚的に負担。その結果、事業者は環境投資を支えるための経済的な土台を確保しやすくなります。結果として、グリーン化に向けた投資を、無理なく長期的に続けられる構造へと移行しつつあるといえるでしょう。
生物多様性の回復と観光を統合する|Predator Free 2050

ただの保全事業ではなく、観光産業もパートナーとして参加。生態系の再生と地域経済の活性化を同時に進める仕組みになっています。
国家プロジェクトと地域観光の協働モデル
Predator Free 2050 は、国が掲げる環境目標でありながら、「各地域でどう実行するか」「観光とどう結びつけるか」まで設計されています。全体戦略は保全省が主導し、Predator Free 2050 Limited(政府傘下企業)が大規模な地域プロジェクトに投資する枠組みを持っています。
一方、地方自治体・先住民マオリ・地域企業・コミュニティ組織がパートナーとなり、現場での実務を担います。
エコツーリズム事業者による保全への直接投資の仕組み
観光事業者みずからPredator Free 2050に投資し、その取り組み自体を新たなビジネス価値につなげる動きも広がっています。
Southern Lakes Sanctuary の事例は、観光事業者が単なる「スポンサー」にとどまらず、保全プロジェクトの設計段階から実行まで深く関わっていることを示しています。ジェットボート会社やアドベンチャーツアーオペレーター、ロッジ経営者などが協働し、在来種の再生に取り組みます。
こうした投資は、結果として「本物の野生動物が息づく場所での体験」という高い付加価値を生み、エコツーリズムの商品力を高めることにつながっているのです。
マオリの知恵と科学的マネジメントが生む再生型観光モデルの仕組み
ニュージーランドの再生型観光戦略の最大の特徴は、マオリの伝統的な知恵と、現代の環境マネジメント科学が融合している点にあります。
Kaitiakitanga に代表されるマオリ哲学は、太平洋の自然環境と共に生きてきた、千年以上にわたる営みの中で培われてきた思想です。一方で、現代の環境管理は、気候科学や生態学、経済学など、最先端の学問分野にもとづいて設計されています。
ニュージーランドの戦略は、こうした二つのアプローチを対立させるのではなく、相互に補い合うものとして組み合わせています。たとえば、次のようなかたちです。
- マオリの伝統的な狩猟・採集の管理方法を、現代の野生生物保全プログラムに組み込む
- 先住民による季節ごとの自然観察の知恵を、気候モニタリングと統合し、より精度の高い環境予測に役立てる
- 文化的価値観と科学的データの双方を意思決定に反映させるガバナンス構造を整える
このようなアプローチによって、観光政策は単なる「経済活動」を超え、「地域の自然と社会全体の長期的な健全性を追求する営み」へと格上げされているのです。
現場での実装事例|クイーンズタウン湖地方
コミュニティの充実や環境回復と脱炭素化、経済の強靭性という3本柱に加え、「Optimal Visitation Project」によって社会・文化・環境・経済の観点から“最適な受け入れ数”を科学的に算定し、観光の質と地域の豊かさを両立させようとしているのが大きな特徴です。
「Travel to a Thriving Future」— 持続可能な未来へ導く地域観光マネジメント計画

「Travel to a Thriving Future」は、クイーンズタウン湖地方を対象とした地域観光マネジメント計画です。世界的に有名な観光地であるこの地域が、再生型観光へと転換していくための全体的なプランを示しています。この計画は、次の三つの柱に沿って実行を進めています。
- コミュニティの充実と訪問体験の向上
- 環境回復と脱炭素化
- 経済の強靭性と生産性向上
これら三つの柱を通じて、経済・社会・文化・環境のすべての領域で価値を生み出す観光への転換を進めているのです。
「Optimal Visitation Project」— 科学的データにもとづく”最適な受け入れ数”の算定

同地区では、「Optimal Visitation Project」という先端的な研究プロジェクトも進めています。これは、社会的・文化的・環境的・経済的な観点から「適切な訪問者数とは何か」を科学的に定義しようとする試みです。[9]
従来の観光政策は「訪問者数の最大化」を目標としてきましたが、再生型観光では「最適な訪問者数」を慎重に算出し、その水準を超えないようコントロールします。単に「何人まで受け入れられるか」を問うのではなく、「どの水準で、どのような条件のもとなら、地域コミュニティ・環境・経済・文化のすべてが繁栄できるのか」を検証しているのです。
まとめ|ニュージーランドから学ぶ再生型観光の実装ポイント
マオリの知恵と最新の科学を掛け合わせたニュージーランドの再生型観光モデルは、これからの観光事業の方向性を示す実践例だといえるでしょう。
- マオリの価値観を事業戦略の中心に据え、「誰のための観光か」という問いを軸に意思決定を行うこと
- 訪問者を、単なるゲストではなく環境保全の共同実行者として巻き込み、体験型プログラムや寄付の仕組みを通じて行動変容を促すこと
- さらに、カーボンゼロや最適受け入れ数の検証など、科学的データに基づいて戦略を継続的に見直し、改善サイクルを回し続けること
こうした取り組みは、観光ビジネスを「利益のための産業」から「社会的インパクトを生み出す産業」へと位置づけ直す試みでもあります。
自社の観光戦略のどこに、マオリの知恵と科学的マネジメントの視点を組み込めるか。そこから、地域ならではの再生型観光への一歩が始まるでしょう。
参考文献
[1] Tourism Futures Taskforce | Ministry of Business, Innovation & Employment
[2] Tiaki – care for New Zealand
[3] Predator Free 2050: Pests and threats
[4] Love Wānaka / Love Queenstown | Regenerative Tourism NZ
[5] Carbon Zero by 2030 | Regenerative Tourism NZ
[6] Case Study: The Queenstown Lakes Visitor Economy is Carbon Zero by 2030 | MT2030
[8]Tourism industry holding fast to its sustainability goals: report
