大量移動から、責任ある巡礼へ | サウジアラビアが挑むグリーン・ハッジ

メッカ巡礼は、毎年1,850万人を超える人々が参加する世界最大級の宗教行事です。その規模の大きさから、都市やインフラへの負荷も非常に大きく、宗教的な儀礼でありながらもサウジアラビア政府による全体的な調整や運営が重要な役割を果たしています。
巡礼には、実施される時期や場所が厳密に定められているという特徴があり、一般的な観光地のように来訪者を分散させるだけでは課題の解決にはつながりません。そのため、巡礼の本質を尊重しながら、環境や社会への影響を抑える持続可能な運営のあり方が求められています。
こうした「責任ある巡礼」に向けた取り組みは、同様に大規模な人の移動を伴う国際的なイベントにとっても、多くの示唆を与えてくれるものになるでしょう。
イスラム教徒にとってのメッカ巡礼とは

メッカ巡礼はイスラム教徒にとって非常に重要な儀式で、ハッジ(大巡礼)とウムラ(小巡礼)があります。
ハッジ(大巡礼)
ハッジはイスラム教の「五行」(信仰告白・礼拝・断食・喜捨・巡礼)の一つで、経済的・身体的に可能であれば、一生に一度は行うことが望ましいとされている巡礼です。ハッジを行うと、過去の罪が清められて新しい人生が始まると言われています。[1]
ハッジの儀式は、イスラム教の預言者「イブラーヒーム」の信仰を再体験するものです。カアバ神殿を中心にメッカ郊外のミナ、アラファトなどへの移動を伴いながら行います。
ウムラ(小巡礼)
ウムラはハッジの一部を簡素化した儀式で、数時間から1日ほどで完了します。ウムラは義務ではありませんが、強く推奨されている儀式であり、ハッジの期間以外は1年を通して行えます。
なぜ今「巡礼×サステナビリティ」なのか

メッカ巡礼は、短期間で集中的に人が集まることから、都市に大きな負荷がかかります。
そのため、今後も永続的に続けていくためには、負荷を抑えたサステナブルな巡礼へと転換していく必要があります。
ハッジとウムラによる巨大負荷
ハッジは、毎年イスラム暦12月の特定の日程で行われ、10日前後の短期間に来訪者が集中します。
移動も伴いながらメッカ周辺に滞在して巡礼を行うため、交通機関、宿泊施設、食品や水の消費、廃棄物、エネルギーなどに大きな負荷がかかります。
メッカ巡礼は「国家が引き受ける巨大イベント」
毎年、世界中から1,000万人以上が集まるメッカ巡礼は、宗教儀礼でありながら、一国のインフラと行政能力を総動員しなければならない大規模なイベントです。
サウジアラビア政府はビザ発行、巡礼人数の割り当て、群衆の管理、医療体制の整備といった全体的な統制を図り、サステナブルな巡礼を目指しています。 [3]

サウジアラビアが直面してきた巡礼の課題

巡礼期間中は、都市の処理能力を上回る人口がいっせいに押し寄せるため、サウジアラビアはさまざまな課題に直面しています。今後、さらに巡礼者数の拡大が見込まれるなか、これらの課題を解決して巡礼の質や安全を確保することが必須と言えます。
環境負荷
巡礼者が生活する仮設キャンプでは、以下のような大量の廃棄物が発生。その結果、処理インフラを圧迫し、環境汚染につながると懸念されています。[4]
- 食べ残し
- 使い捨てプラスチックごみ
- 使用済みのイフラームの衣服
※イフラーム:イスラム教の巡礼において、ムスリムが縫い目のない2枚の白い布(イフラーム布)を着用し、神聖な状態に入ることを指す
さらに、大量のエネルギー消費によるCO2排出や、水資源の大量消費といった環境負担も深刻な課題となっています。
- 移動や宿泊施設、礼拝施設などに伴う膨大なエネルギー消費により、CO2排出量が増加
- 飲料やウドゥー(礼拝前の沐浴)などの用途で水使用量が急増
インフラへの極端な負荷
移動や医療など、以下のようなインフラにも極端な負担がかかります。[5]
- 道路や鉄道、空港などの交通機関
- 宿泊施設
- 救急・感染症対応を行う医療体制
特定期間にのみ極端なピークが訪れるため、ハッジ専用のインフラを整えようとすると高コスト・低稼働になり、調整が難しいことが課題です。
過密・衛生問題
宗教儀礼は時間・場所が厳密に決まっています。そのため、人の動きを分散させることが困難であり、過密は避けられません。過去には、一方向に進むはずの信仰の導線で逆流が起き、大規模な死傷事故につながることもありました。[6]
また、気候変動の影響による気温上昇も、見過ごせない問題です。ハッジの時期はイスラム暦で毎年変化しますが、近年は50℃近い環境で長時間の儀礼を行う年もあります。当然そのような状況下では、熱中症患者も多数発生します。
巡礼者の行動変容の難しさ
巡礼は宗教的義務であり、他の行動よりも儀礼に関わる行動が優先されます。
また、世界各地から文化や生活習慣、言語の異なる人々が集まるため、情報の伝達は簡単ではありません。その結果、分別や節水などの共通ルールを浸透させることが難しいという問題が生じています。
行動変容には個人の意識向上だけでなく、宗教的価値観と結びついた啓発や、仕組みとして無理なく実践できる環境整備が不可欠です。
グリーン・ハッジとは何か?

グリーン・ハッジは、環境負荷を最小限に抑えながら、巡礼者に持続可能な行動をうながす試みです。[7] 特徴的なのは、環境への配慮を国家戦略にとどまらず、巡礼者の責任や信仰実践の一部として実行すべき行動であると定義している点です。
| タイミング | 推奨される行動 |
|---|---|
| 巡礼前の準備 | グリーン・ハッジのワークショップの受講 再利用可能なボトルや綿のバッグの準備 環境に配慮した宿泊施設の選択 |
| 巡礼中 | 公共交通機関やEVの利用 イフラーム衣服を再利用 食べる分だけの食品の購入 使い捨てプラスチックの不使用 水や電力の節制 ごみの削減・分別 |
| 巡礼後 | 聖地緑化の支援 再利用やサステナブルな商品選択 太陽光発電の使用 持続可能な生活習慣の維持 |
「環境配慮=宗教的責任」を再定義
グリーン・ハッジは、イスラム倫理を近代的な環境思想と融合させている点が核心となっています。[9]
- カリーファ(代理人)思想:人間は地球を預り保護する存在であり、破壊してはならない
- イスラーフ(浪費)の禁止: 水・食品・資源の無駄遣いは罪とされる
- タラーハ(清浄):ごみを削減する
巡礼とは本来、質素・平等・節度を体現する行為であると説いています。
サウジアラビア政府の主な省庁連携
グリーン・ハッジのガイドラインに即した巡礼姿勢を実現するため、ハッジ・ウムラ省をはじめとする以下の各省庁が連携を図っています。
| 主体名 | 主な役割 |
|---|---|
| ハッジ・ウムラ省 | ハッジ・ウムラ全体の中核省庁。宿泊・移動・食事などのサービス品質の管理なども行う。 |
| 宗教当局 | 儀礼の宗教的解釈・指針の提示。聖域内での行為の適否判断など。 |
| 内務省 | 治安・群衆管理・安全確保。VISA管理・入国審査、緊急時の対応。 |
| 保健省 | 巡礼期間中の医療体制の構築。感染症対策などリスクの管理。 |
| 交通・インフラ関連機関 | メッカ・ミナ・アラファト間の輸送計画など。 |
| 観光省・サウジ観光庁 | 宗教観光の長期戦略(Vision 2030)、巡礼者体験の改善、デジタル化・サービス品質向上。 |
| DX機関 | 巡礼者アプリNusukの運営、ビザ・健康・移動データの統合、混雑予測・群衆分析。 |
各省庁の協力により、混雑緩和や廃棄物削減、再生可能エネルギーの活用など、持続可能な巡礼体験を推進しています。
Vision 2030との関係
Vision 2030はサウジアラビアが石油に頼らず、文化・観光・人・自然を活かして、持続可能で開かれた国家へ転換するための改革プロジェクトです。
具体的なサステナビリティ施策

巡礼は時間や場所の制約があるため、それぞれの課題は単純に「分散」するだけでは解決できません。より多角的なサステナビリティ施策が巡礼の未来を作っていきます。
環境面
環境面では、政府が率先して以下のような仕組み作りを行ってきました。
インフラ
政府はメッカ市内を中心に、EVバスなどCO2の排出が少ない車両の導入を積極的に行っています。加えて、歩行路の整備や巡礼の手続きを一元管理できるアプリの提供など、巡礼者の負担を減らし、快適に巡礼を行える環境を整えています。
安全・衛生
メッカ巡礼において、気候変動による影響は避けて通れないものです。今後も気温の上昇が見込まれるなかで、日陰をつくるなど、以下のような対策が行われています。

行動変容
市民参加型プロジェクト「Green Spots」を通した、巡礼者の行動変容をうながしています。“Sort It, Recycle It”(分けて、リサイクルしよう)をスローガンに、環境に配慮したごみの分別・再利用を巡礼者や関係者に呼びかけています。[19]
特徴的なのは、リサイクル可能なごみを、地域の産業を通じて有益な資源として活用している点です。地元企業である「GREEN Bags SAUDI」は、使い捨てプラスチックを再利用してデザイン性の高いバッグを作っています。[20][21]

サステナブルな巡礼のためにハッジ参加者に求められる役割

グリーン・ハッジは精神的価値(信仰)と環境保護の両立を目指す、サステナブルな新しい巡礼モデルです。その実現のためには、運営主体だけでなく、ハッジ参加者も「共に担う存在」として協力して環境や安全を守ることが必要です。
ゴミの分別、節水、混雑時の順守、持ち物の管理など、一つひとつの行動が、周囲の安全や環境に影響を与えることを意識しなければなりません。
こうした意識を持って行動すれば、ハッジ参加者は単に信仰の義務を果たすだけでなく、自然や地域資源の保全にも貢献できます。
観光産業にとって何を意味するのか

グリーン・ハッジは、大規模集客モデルであるメッカ巡礼の限界を示しています。
従来のハッジ運営は「できるだけ多くの巡礼者を受け入れる」ことに重きが置かれていました。しかし、環境や地域への負担増加により、サステナブルな観点で巡礼を見直す必要が生じています。
そこで重要なのは、巡礼者の受け入れ方を工夫し、環境・安全・体験の質をすべて維持しながら運営する視点です。
サステナブルな巡礼を実現するため、サウジアラビア政府の各省庁は連携を強化。交通機関の改善、医療体制の構築、廃棄物管理、教育啓発などの役割を分担する協働モデルを構築してきました。
他の観光産業への持続可能性の示唆
こうした国家・宗教・観光が連携した取り組みは、巡礼に限らず、万博や祭りといった大規模なイベントを含め、世界各地で多くの人を迎える取り組みの参考になる視点を示してくれるのではないでしょうか。
環境負荷や安全リスクを最小化しながら、参加者体験の質を高める「受け入れ方の最適化」は、持続可能なイベント運営のモデルケースとして応用可能です。
グリーン・ハッジの取り組みは、規模の大きさだけでなく、質の高い体験と環境配慮を両立させる新しいマネジメントの方向性を提示しています。
祈りの旅が示す観光の未来
巡礼は、はるか昔から存在している最も古い「旅」です。その旅でさえもサステナブルなものへと変化しています。
巡礼の旅が変われるなら、他の旅もサステナブルやリジェネラティブな形に必ず変われるはずです。反対にそれらを意識しなければ、いずれ限界を迎えるでしょう。
どのような旅でも変わるきっかけは作れます。巡礼の旅を参考に、サステナブル・リジェネラティブな旅の未来を創っていきましょう。
参考文献
[1]公益財団法人 日本国際問題研究所「ハッジ(イスラムの巡礼)」
[2]KINGDOM OF SAUDI ARABIA「Pilgrim Experience Program Annual Report 2024」
[3]Gulf Business「Hajj 2025 preparation: The 15 major steps Saudi has taken」
[4]EARTH・ORG「Sustainable Hajj 2024: Paving the Way for an Eco-Friendly Pilgrimage」
[5]ARAB NEWS「Major infrastructure and transport upgrades boost Hajj experience」
[6]ALJAZEERA「Saudi Arabia orders probe into deadly Hajj stampede」
[7]Green Hajj「About Green Hajj」
[8]Green Hajj「The Green Guide For HAJJ And UMRAH」
[9]Green Hajj「What Islam says about the environment」
[10]Saudi Vision2030「Pilgrim Experience Program」
[12]Fasion Commission「Ihram Circularity: Weaving a Greener Hajj and Umrah Experience」
[13]Global Business Outlook「Go Green with GBO: The eco-evolution of Saudi Arabia’s holy sites」
[14]Saudi Gazette「Saudi Arabia launches cooled pedestrian walkway in Makkah」
[15]Arab News「Eco-friendly and safer walkways expanded by 33% at Makkah Hajj sites」
[16]Saudi &Middle East「SGI Initiatives」
[17]Gulf Business「Hajj 2025 goes hi-tech: 6 innovations transforming the pilgrimage」
[19]GULF NEWS「Saudi Arabia rolls out ‘Green Spots’ initiative to boost recycling during Hajj」
