観光は誰のためのものか? ― マオリが示す再生の道

「観光は誰のためのものか?」――この問いに、ニュージーランドは一つの明確な答えを示しています。その答えは、観光の舞台となる「土地と、そこに生きる人々」です。
その背景にあるのが、先住民族マオリが何世代にもわたって受け継いできた世界観です。自然と人は切り離せない存在であり、人間は自然の「守り手(kaitiaki)」の一員であるという思想。この価値観が、観光のあり方そのものを見直す動きへとつながっています。[1]
本記事では、マオリの三つの価値観と、それを制度として可視化した「Tiaki Promise」の仕組みを解説します。
観光は誰のためのものか? ニュージーランドが示した問い

世界の観光産業はこれまで「持続可能な開発」を掲げてきましたが、実際には経済成長を優先し、環境や地域社会への負担を広げてきた側面があります。コロナ禍を経て、「観光は本当に、人や土地から受け取る以上の価値を返しているのか」という問いが、よりはっきりと意識されるようになりました。[2]
ニュージーランド政府はこの問いに正面から向き合い、「観光は人と場所に、取る以上の価値を返すべきだ」と明確に定義。再生型観光への転換を、国の観光ビジョンの中心に据えています。
地域とビジネスの持続可能性とレジリエンスを高めるニュージーランドの小規模シンクタンク兼コンサル機関、SRIもまた、再生型観光のフレームワークにおいて、政策立案の段階から「目的地とそこに暮らす人々」を最優先にすべきだと提言しています。これは、観光の軸足を「訪問者中心」から「地域中心」へと移す発想です。マオリの世界観を基盤に置くことで、「誰のための観光か」という問いに対し、「この土地と、ここに暮らす人々のためのもの」という明確な答えが示されました。
さらに、SRIは2026年の発信でも、先住民の知識と地域社会を政策に組み込むことが、文化的アイデンティティを守り、コミュニティの声を確実に反映するうえで重要だと述べています。[3]
観光のあり方を技術や制度だけでなく、価値観のレベルから問い直す姿勢こそが、ニュージーランドが示した大きな転換点だといえるでしょう。
マオリの世界観(Te Ao Māori)が再生型観光の土台になる理由

Te Ao Māoriとは、人と自然、目に見えるものと見えないものがすべて深く結びついていると捉えるマオリの世界観です。人間は自然より上位に立つ存在ではなく、森や川、海と同じ「家族」の一員であり、その健全さは人びとの健康と直結すると考えられています。
この世界観のもとでは、環境管理も観光も「関係性を整える営み」として位置づけられ、次の3つが一体となって働きます。
- Kaitiakitanga(カイティアキタンガ)― 守護・守る責任
- Manaakitanga(マナアキタンガ)― 他者への配慮・おもてなし
- Whanaungatanga(ファナウンガタンガ)― つながりの価値
これらは抽象的な理念ではなく、政策や現場の取り組みに具体的に反映されており、観光の目的や運営のあり方そのものを形づくっています。
ニュージーランド政府が掲げる「観光は人と土地に、取る以上の価値を返すべき」という再生型観光モデルは、まさにこのTe Ao Māoriの発想を政策レベルに翻訳したものといえるでしょう。[4][5]
Kaitiakitanga(カイティアキタンガ)― 守る責任
Kaitiakitanga(カイティアキタンガ)とは、空・大地・海に対する「守り手(kaitiaki)としての責任」を指します。マオリの考え方では、大地は先祖から受け継いだ宝物(タオンガ)であり、次の世代へと手渡すべき存在です。自然は所有するものではなく、関係を結び、守る対象だと理解されています。
カイティアキタンガは系譜(ワカパパ)に根ざした役割であり、先祖から受け継がれてきた使命でもあります。このガーディアンシップの概念は、観光においても環境保全の中核原理として機能しており、資源管理や開発の判断基準にも影響を与えています。[6]
Manaakitanga(マナアキタンガ)― おもてなしの力
Manaakitanga(マナアキタンガ)は、他者に対してアロハ(愛情や思いやり)を差し伸べる姿勢を意味します。家族やコミュニティの絆を深める、マオリにとって最も大切な価値観のひとつです。相手を尊重し、心を配ることが人間関係の土台になります。
観光の場面では、ゲスト(マヌヒリ)に対して文化的な敬意をもって接し、心からのもてなしを提供する姿勢として表れます。マナアキタンガは単なる「サービス」ではなく、「関係を築く行為」です。訪問者が地域の文化や人と深く結びつくための入口となっています。
Whanaungatanga(ファナウンガタンガ)― つながりの価値
Whanaungatanga(ファナウンガタンガ)とは、人と人との関係を築き、親族やコミュニティの絆を強めることを指します。この価値観は、人々を結びつける本質的な接着剤のような存在であり、一体感や帰属意識、結束力の土台になります。
観光においては、訪問者と地域社会が対等な立場で出会い、互いに学び合い、影響を受け合う関係を育てる原理として機能しています。単発の消費で終わらせず、長期的な関係性を築くことが、持続可能で再生的な観光戦略につながっているのです。[7]
Tiaki Promise ― 世界観を「制度」にした仕組み

マオリの価値観を、訪問者が実際に行動できる「約束」へと翻訳したのがTiaki Promise(ティアキ・プロミス)です。「Tiaki」はマオリ語で「人と場所を大切にする」という意味を持ちます。この約束は、ニュージーランドが訪問者に対して提示する「ウェロ(wero=挑戦・問いかけ)」であり、「この国の一時的な守り手として旅をしてほしい」という呼びかけです。抽象的な世界観を、誰でも参加できる行動のかたちに落とし込んだ点に、この仕組みの独自性があります。[8]
Tiaki Promise の内容と成り立ち
Tiaki Promiseは、以下の官民7つの組織が連携して生まれました。
- 政府観光局
- ニュージーランド航空
- 自然保全省
- 観光産業協会
- 地方自治体協会
- マオリ観光団体
- 観光ホールディングス
「自然とのつながりを共有し、訪問者が安全かつ責任をもって旅できるよう促したい」という業界全体の思いが出発点でした。ひとつの哲学を国家規模のブランドメッセージに変えた好例といえるでしょう。
誓約の具体的な中身
Tiaki Promiseの中心は、訪問者が以下の3つのことを約束する点にあります。
- 自然を大切にし、足跡を残さないこと
- 安全に旅をし、周囲に配慮すること
- 文化を尊重し、開かれた心で旅をすること
さらに、行動の指針として5つの重点分野も示されています。
- 「自然を守る」
- 「ニュージーランドをきれいに保つ」
- 「十分に準備をする」
- 「安全運転を心がける」
- 「敬意を示す」
抽象的な理念ではなく、日々の行動に落とし込まれている点が特徴です。[9]
Tiaki Promise の運用
Tiaki Promiseは「オープンソースの概念」として設計されており、どの事業者でも自由に活用できます。動画やポスター、多言語ガイドライン、業務への組み込み方の提案などが用意されています。航空会社の機内コンテンツ、空港でのテ・レオ・マオリ(マオリ語)による挨拶表示、宿泊施設のチェックインカウンター、アクティビティ事業者のウェブサイトなど、訪問者の旅のあらゆる接点にTiakiのメッセージを織り込む運用が推奨されています。
ビジネス向けガイドでは、「Tiakiは認証マークや達成スタンプではなく、事業者が内面化すべき生き方・ふるまいの価値観であり、それを訪問者に伝播させるもの」と明記されています。訪問者がTiaki Promiseに触れる機会を増やすことで、理解が深まり、責任ある行動につなげるのがねらいです。予約段階から帰国後まで一貫した体験設計が目指されています。[10]
マオリ主体の観光事業は何を変えているのか
マオリ主体の観光は、文化を「見せる商品」ではなく「暮らしを共にする関係」へと転換しています。利益を地域内で循環させ、雇用と誇りを生み出しながら、文化継承と経済再生を同時に進める点が特徴です。その実践例が、ニュージーランド北島のKohutapu Lodge & Tribal Toursです。家族経営による先駆的な文化観光として、マオリ主体の観光モデルとして注目を集めています。
「リアルな暮らし」を共有する観光

ニュージーランド北島のムルパラ(Murupara)。社会的・経済的に厳しい状況にあるこの地域で、マオリの家族経営ビジネス「Kohutapu Lodge & Tribal Tours」が、観光のかたちを静かに変えています。
ロッジを営むのは、ナディーン&カール・トートー夫妻。ンガーティ・マナワ(Ngāti Manawa)の祖先伝来の土地、アニフェヌア湖を見下ろす場所に拠点を構え、訪問者を“ステージ”ではなく“暮らし”のなかへ招き入れます。
「ショーが見たいなら大きな街へ。でも、私たちの暮らしを知りたいなら家族として歓迎します」とナディーン氏は語ります。そこにあるのは、演出されたパフォーマンスではなく、日々の営みそのもの。
伝統的な地中調理ハンギ、カパハカ、マラエ訪問、古代の岩絵が残る森の散策、編み物のワークショップ。さらに、ウナギ漁を学び、菜園づくりに参加し、地域の人びとと時間をともにします。全てが文化を“見る”観光ではなく、関係を築きながら理解していく体験設計になっています。
Kohutapu Lodgeが提示しているのは、鑑賞型から関係型への転換。観光を通じて「本物」に触れるとはどういうことかを、静かに問いかける実践です。[11][12]
コミュニティへの還元と雇用創出

Kohutapu Lodgeのミッションは、「本物のマオリ文化体験を通じてコミュニティに力を与えること」にあります。失業率の高い地域において、ロッジは「自分らしくいること」に価値を見いだし、それ自体が報酬につながる雇用を生み出してきました。
ツアーガイドや料理担当、文化アドバイザーなど、スタッフはすべて地域住民で構成されています。観光によって得られた収益は、若者育成や地域活動へと還元されます。Native Nations などの文化交流プログラムを通じて、次世代のガイド育成にも取り組んできました。
その結果、観光の利益が外へ流出するのではなく、地域のなかで循環する仕組みが機能しています。実際に、ニュージーランド・ツーリズム・アワードで複数部門を受賞するなど、社会的評価も得ています。
マオリ哲学から日本の地域が学べること
日本にも、マオリの思想と響き合う先住民の世界観があります。北海道のアイヌの人びとは、すべての自然にカムイ(神)が宿るとするアニミズムにもとづき、儀式や口承叙事詩ユーカラを通じて知恵を受け継いできました。琉球(沖縄)にも、独自の言語と自然観をもつ精神文化が今も息づいています。自然を最初の守り手と捉えるマオリのカイティアキタンガと通じる価値観です。
SRIは、こうした先住民の知識を単なる演出(イベント)ではなく、意思決定の「根本原則」に据えるべきだと提言しています。アイヌや琉球の思想を観光計画や事業運営の土台に据えることができれば、日本の地域観光も再生へ向かう可能性が広がるでしょう。
ただし、ここで重要なのは、アイヌや琉球の形式をそのまま他地域へ転用することではありません。安易な模倣は、その土地本来の文脈を損ない、かえって「本物の体験」から遠ざかってしまうからです。
真に見つめ直すべきは、日本各地に古来より根付く「アニミズム」の精神です。万物に魂が宿ると考えるこの思想は、どの地域にも形を変えて息づいており、固有の可能性を秘めています。アイヌや琉球の在り方を指針としつつ、各地域が自らの足元にある精神性を再構築していく。その誠実なアプローチこそが、真に深い観光体験を生み出す土台となるでしょう。
問われているのは、それらを観光の飾りにとどめるのか、意思決定の軸に据えるのかという選択です。観光は誰のためのものなのか。その答えは、地域自身の覚悟の中にあるのかもしれません。
参考文献
[1] Transitioning to a regenerative tourism model | Ministry of Business, Innovation & Employment
[2] MBIE(ニュージーランドビジネス・イノベーション・雇用省)「Transitioning to a regenerative tourism model」
[4] Science Learn NZ「Understanding kaitiakitanga」
[5] Te Ara – Encyclopedia of New Zealand「Kaitiakitanga – guardianship and conservation」
[6] Worlds Apart, Te Ao Māori and Western Worldviews in Aotearoa, New Zealand – PMC
[7] Māori Value Report: Whanaungatanga
[8] Tiaki – care for New Zealand
[9] Te Araroa「The Tiaki Promise」
[10] How to make the most of the Tiaki Promise:
