アニマルウェルフェア(動物福祉)と旅の在り方|責任ある観光がもたらす豊かな体験

毎年、世界中で数百万人の旅行者が野生動物との出会いを求めています。象乗り、イルカとの触れ合い、虎との写真撮影——こうした体験は、旅の思い出として語り継がれてきました。しかし、その背後には、深刻な動物福祉の問題が隠れていることをご存じですか?
象乗りツアー、イルカショー、虎との記念撮影——こうした「体験」が動物にもたらす精神的・身体的苦痛は計り知れません。
しかし、ここで重要な認識の転換が必要です。責任ある観光、つまり「アニマルウェルフェア(動物福祉)」を中心に据えた旅のあり方を選ぶことで、旅行者自身もより豊かで意味のある体験を得ることができます。
本記事では、観光産業における動物福祉の重要性と、それを事業に組み込むことで得られるビジネスチャンスについて、具体的な事例と国際基準に基づいて解説します。
なぜ今、アニマルウェルフェア(動物福祉)が観光産業の必須課題なのか

観光産業と動物福祉の結びつきは、もはや見過ごせない状況です。
この背景を理解することが、今後の競争力を確保するためのカギといえるでしょう。
アニマルウェルフェア(動物福祉)とは|単なる「優しさ」ではなく、国際的ビジネスの基準
アニマルウェルフェア(動物福祉)という言葉を聞くと、単に「動物に優しく接すること」を思い浮かべる人もいるでしょう。しかし国際的には、これは明確な定義を持つ「ビジネスの基準」として扱われています。
その中心となるのが「Five Domains(5つのドメイン)」という考え方です。Five Domainsは、以下の五つの側面から動物の福祉を総合的に評価します。
- 栄養
- 物理的環境
- 健康
- 行動
- 精神状態
従来の「5つの自由」という概念から発展したもので、苦痛を取り除くだけではなく、動物が「よりよい一生」を送れるかどうかを判断する点が特徴です。[3][4]
観光産業でこの基準が重要とされるのは、象乗りやイルカショーといった活動が、これら5つの側面すべてに悪影響を及ぼすためです。象は過度な労働で休息や水分補給が不足し、自然な行動も制限されます。イルカも同様に、野生の群れから引き離され、自然な行動を抑えられたままパフォーマンスを繰り返します。こうした状況は、動物の心理状態に深刻な負担を与えると考えられるでしょう。
責任ある野生動物体験がもたらす旅行者の深い満足感
興味深いことに、動物福祉を重視した観光体験は、旅行者により深い満足感をもたらします。
象との直接接触や象乗り体験よりも、自然な距離を保ちながら象の社会構造や個性を知る体験のほうが、旅行者の満足度が高い傾向があります。これは、本来の行動を目にする感動が、人工的に作られた体験を上回るためでしょう。
さらに旅行者は、自分の選択が地球のどこかで意味のある影響を生んでいると実感しやすくなります。責任ある観光を選ぶ行動は、帰宅後の生活や価値観に長期的な変化をもたらす場合もあります。単なる観光を超え、人生観を見つめ直すきっかけになるといえるでしょう。
世界の先進事例から学ぶ、責任ある観光モデル
国際的に動物福祉を中心に据えた観光モデルで成功している具体的な事例を見ることで、その実装方法や仕組みを学ぶことができます。
タイ|象乗り観光から「観察型体験」への転換

タイはかつて、象乗り体験を象徴する観光地として知られていました。しかし、国際的な動物福祉基準が広がるにつれ、責任あるツアー企業は新しいモデルへの転換を急いでいます。ChangChill Elephant Sanctuary(チャンチル・サンクチュアリ)は、その代表的な例です。[6]
ここでは、象は自由に歩き回り、旅行者は一定の距離を保ちながらその行動を観察します。象の世話をする「マホウト(象使い)」との対話を通じて、旅行者は象の社会構造や個性について、より深い理解を得ることができます。
重要なのは、この距離感のある体験が、象にストレスを与えないだけでなく、旅行者にとっても「本物の」動物との関係を築く機会になっている点です。訪問者の声としても、象乗り体験より深い感動を得られたという報告が多く見られます。
ラオス|住民参加が密猟を減らし、村の収入を安定化

ラオスのナム・ネルン地域では、かつて虎の密猟が深刻な脅威となっていました。ところが、2010年から地域コミュニティが夜間の野生動物観察ツアーを提供するようになり、状況は大きく変わりました。[7]
仕組みはシンプルですが、効果は高いものです。観光客が野生動物を目撃し、その情報が報告されるたびに、村人へ直接的な経済的報酬が支払われます。
この事例が示しているのは、地域住民が保全活動から継続的な収入を得られるようになれば、違法な野生動物取引や密猟ではなく、保全を選ぶようになるという、ごく当たり前でありながら重要な事実です。
ギリシャ|地域全体で取り組むアニマルウェルフェア改善

ギリシャのサントリーニ島では、観光産業が急速に拡大するなか、数百頭のロバが過酷な労働条件のもとで働いていました。十分な水分補給や休息、日陰となるシェルターがなく、不適切な鞍(馬などの背に載せて人を乗せやすくするための馬具)によって多くのロバが苦しんでいたのです。
The Donkey Sanctuary(ドンキーサンクチュアリ)は、この状況を改善するため大規模なキャンペーンを展開しました。
このプロジェクトが「個々の施設の改善」にとどまらず、「観光地全体の基準を底上げした」点です。地方自治体、観光事業者、NGO、地域住民が連携したことで、持続可能で倫理的な観光モデルへの転換が地域単位で実現したといえるでしょう。
観光事業者が知るべき経済的・社会的メリット
動物福祉への投資は、決してコストではなく、明確なビジネス上のメリットを生むものです。その理由を理解することが、事業転換を進めるうえで大きな後押しになります。
野生動物観光が生み出す巨大な経済価値

一見すると、動物への配慮は「ビジネスコスト」のように思えるかもしれません。しかし実際の経済データは、それとは逆の事実を示しています。
この大きな経済価値は、動物が「観光資源」であるだけではなく、その保全が地域経済全体の活性化につながるためです。裏を返せば、動物福祉を無視した短期的な搾取は、観光資源そのものを失う結果につながりかねないということです。
保全活動が地域経済を活性化する|ウガンダの事例

ウガンダで進められたマウンテンゴリラの保全は、この原理を体現する好例です。
現在、野生個体数が増加している大型類人猿はマウンテンゴリラだけです。
この復興の背景には、地域社会がゴリラを「生きた観光資源」として認識し、その保護に経済的な利益を見いだしたことがあります。
ここから学べるのは、動物の保全と地域経済の発展は相反するものではなく、むしろ相乗効果をもたらすという点です。
文化の再生と地域社会の自発的参加の促進
責任ある観光が地域にもたらす効果は、単なる収入の増加にとどまりません。
地域が自分たちの自然環境や野生動物を大切な資源として捉え直すと、若者の働き方や地域経済の構造、教育内容や次世代への知識の受け渡し、さらには伝統文化やアイデンティティの位置づけまで、さまざまな面で見直しが進みます。その結果、自然環境と文化の両方を誇りとして守り育てようとする意識が強まり、地域全体が主体性を持って将来像を描くようになるのです。
このように、動物福祉を軸とした観光は、「動物を傷つけない」ことだけを目的とする消極的な取り組みではありません。自然と文化、経済が相互に支え合う関係を築き、地域社会の尊厳と持続的な発展を後押しする、前向きな循環を生み出すアプローチだといえるでしょう。
導入に必要な国際基準
観光事業者が動物福祉を取り入れようとする際には、国際的に認められた基準を理解し、実務に落とし込むことが欠かせません。特にABTAやWTTCが示すガイドライン、そして第三者認証であるGlobal Humane認証は、事業の信頼性を高めるうえで中心的な役割を果たします。
ABTAガイドラインが示す「避けるべき行為」と「選ぶべき行為」

200名を超える動物福祉専門家との協議を経て策定されたこのガイドラインは、観光産業における動物福祉の基準として国際的に広く参照されています。
ガイドラインでは、象や大型類人猿、野生ネコ科動物などとの直接接触や餌やり、さらにはショーやパフォーマンスの提供を「受け入れがたい行為」として明確に禁止しています。
一方で、動物を安全な距離から観察する体験や、専門ガイドによる教育的なプログラム、国際認証を取得した施設での体験、収益の一部を保全に再投資する仕組みなどが、望ましい観光モデルとして推奨されています。
WTTCの推奨事項|ツアーオペレーターと宿泊施設が取るべき行動

ここでもABTAガイドラインの採用が強く勧められており、ツアーオペレーターには野生動物との接触を避ける体験設計や、野生動物の不適切な調達を抑止する仕組みの構築、関係法令の確認と遵守が求められます。宿泊施設に対しても、野生動物との接触や餌やりの禁止、動物の商業利用や繁殖を避けることが推奨されています。[12][13]
Global Humane認証|第三者評価による信頼性の確保
この認証は、Five Domainsモデルに基づき、保護区や宿泊施設、ツアーオペレーターが動物福祉の基準を満たしているかを科学的に評価するものです。[14]
国際的な第三者認証を取得することで、観光事業者は自社の取り組みの信頼性を高め、旅行者に対して透明性の高いサービスを提供できるようになります。
ビジネス転換がもたらす市場競争力の強化

動物福祉への投資は、短期的なコストではなく、長期的な市場競争力を高めるための戦略です。その具体的なメリットを理解することが、事業転換を決断する大きな後押しになります。
消費者ニーズの変化|「意味のある体験」へのシフト
旅行者の行動は、いま大きく変わりつつあります。旅行者の行動は大きく変化しており、従来のように「刺激」や「珍しさ」だけを求める旅から、より深い目的意識や価値を求める旅へと移行しています。近年の旅行者は、体験そのものの楽しさに加えて、その行動が社会や環境にどのような影響を与えるのかを重視する傾向が高まっています。
この変化の背景には、環境問題や生物多様性の危機に対する認識の高まり、そして持続可能性を重視するライフスタイルへのシフトがあります。旅行者は、自然や動物への配慮が行き届いた体験を選ぶことで、自分の消費行動が地球規模の課題解決に貢献しているという実感を得たいと考えるようになっています。
さらに、旅を通じて個人の価値観を広げたり、社会的なつながりを深めたりすることへの関心も高まっています。単なる娯楽ではなく、自分の人生に影響を与える学びや気づきを得られることが、旅行者にとって重要な選択基準になりつつあるのです。
責任ある観光を提供することは、こうした新しい消費者心理に応えるうえで欠かせない要素といえるでしょう。
ブランド価値と企業評価の向上
動物福祉への取り組みは、企業のブランド価値を大きく押し上げます。
さらに、ESG投資が主流となる中で、動物福祉への配慮は企業の社会的責任(CSR)や持続可能性戦略の重要な要素として評価されます。投資家やステークホルダー(利害関係者)から高い評価を得ることは、企業の市場価値そのものの向上にもつながります。
責任ある競争の広がり|欧州で進む象乗り廃止の動き
欧州では、複数の大手ツアーオペレーターが象乗り体験の提供を廃止しています。これは単なる「倫理的な決断」ではなく、消費者ニーズの変化に対応した結果として生まれた、市場競争上の選択です。
このような市場メカニズムは、規制だけでは実現しにくい、持続可能で実効性の高い改善をもたらします。
NGOと企業連携による業界基準の底上げ
とくにWild Welfareは、「施設と対立するのではなく、協働する」という実務的なアプローチをとっている点が特徴です。動物園や水族館、サンクチュアリ(自然保護区)に対して、批判ではなく段階的な改善支援を行うことで、現場に根ざした変化を促しています。このモデルにより、より多くの施設で具体的な改善が進み、結果として多くの動物が実際に恩恵を受けることにつながっているのです。
まとめ
アニマルウェルフェアは、単なる「動物愛護」の話ではなく、観光産業の未来を左右する重要なビジネス課題です。Five DomainsフレームワークやABTA、WTTC、Global Humane認証といった国際基準は、観光事業者にとって具体的な行動指針となるロードマップを示しているでしょう。
タイの象観察体験、ラオスの地域住民参加型モデル、ギリシャにおけるデスティネーション全体での改善など、世界各地の先進事例は、動物福祉の向上と事業の成功が両立しうることを明確に示しています。
そして、消費者が「意味のある体験」を重視する時代において、責任ある観光への転換は、もはや競争力を維持するための必須条件といえます。この変化の波をチャンスとして捉え、次の一歩を踏み出す準備を整えましょう。
参考文献
[1] Checking out of cruelty | World Animal Protection
[2] ABTA Global Welfare Guidance
[3] Five Domains Model – RSPCA
[5] PubMed|Human–Animal Interactions: Expressions of Wellbeing[5] NIH/PMC Study
[7] Lao ecotourism project wins responsible travel award for innovation
[9] Global wildlife tourism generates five times more revenue than illegal wildlife trade annually
[12]https://wttc.org/sustainability/environment/illegal-wildlife-trade
